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鎌倉時代中期~後期の公卿。洞院家2代。洞院実雄の次男。従一位・太政大臣。勅撰集『続拾遺和歌集』以下に24首入集 ウィキペディアから
洞院 公守(とういん きんもり)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。左大臣・洞院実雄の子。官位は従一位・太政大臣。亀山天皇・後深草天皇・伏見天皇の外叔父にあたる。
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 建長元年(1249年) |
死没 | 文保元年7月10日(1317年8月17日) |
改名 | 公守→素元(法名) |
別名 | 号:山本相国、正親町 |
官位 | 従一位、太政大臣 |
主君 | 後伏見天皇→亀山天皇 →後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇 |
氏族 | 洞院家 |
父母 | 父:洞院実雄、母:栄子(公審の娘) |
兄弟 | 公宗、小倉公雄、守恵、佶子、愔子、公守、季子、禖子、慈順、公尹、公方、公風、定勝、実修、公潤、公春、近衛基平室、鷹司基忠室、西園寺公蔭室、三条公親室、実子 |
妻 |
清水谷持子(清水谷実持の娘)、平親継の娘 泰勝の娘 |
子 | 実泰、正親町実明、賢助、桓守、良守、成助、公厳、覚深、成澄、済助、三条実重室、女子 |
建長5年(1253年)従五位下に叙位。翌建長6年(1254年)従五位上に昇叙。建長7年(1255年)侍従に任じられる。正嘉元年(1257年)正五位下に進む。
正嘉2年12月(1259年1月)右近衛少将に任じられる。翌年従四位上に進み、正元2年(1260年)右近衛中将、文応2年(1261年)正四位下・讃岐介に叙任。中宮権亮を兼ねて姉の佶子に仕える。同年8月に佶子が亀山天皇の皇后となると皇后宮権亮に任じられた。左近衛中将を経て、文永3年(1266年)能登権介を兼ねる。文永4年(1267年)に従三位に昇叙して公卿に列した。
文永7年(1270年)に正三位・権中納言となる。文永8年(1271年)には異国(蒙古と高麗)の降伏を祷るために伊勢に遣わされている[1]。皇后宮権大夫を経て、文永9年(1272年)従二位、建治4年(1278年)正二位に昇叙し、弘安6年(1283年)権大納言に任じられる。正応3年(1290年)左近衛大将に任じられ、内大臣となるが、正応4年(1291年)に両職を辞した。永仁4年(1296年)には従一位に至る。
正安元年(1299年)太政大臣となるが、同年のうちに辞する。嘉元3年(1305年)素懐により出家した。法名は素元(そげん)。
文保元年(1317年)7月10日、薨去。享年69。山本相国(やまもと しょうごく)と呼ばれ、十三代集などには山本入道前太政大臣(やまもと にゅうどう さきの だじょうだいじん)の名で歌が収録されている。また正親町(おおぎまち)を号し、次男の実明が分家して正親町家を興している。
以下日付はいずれも旧暦による。
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