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明治期の裁判官、内務・警察官僚 ウィキペディアから
河野 忠三(こうの ちゅうぞう、1851年7月13日(嘉永4年6月15日)- 1922年(大正11年)1月28日[1][2])は、明治期の日本の裁判官、内務・警察官僚。官選県知事。号・独坐居士[3]。
長門国阿武郡萩土原(現山口県萩市)で、長州藩士・白根多助の三男として生まれ、万延元年8月23日(1860年10月7日)、徳佐村字台の河野尚人の養子となる[1]。
1874年11月、山口県十五等出仕・聴訴課勤務となる[1][4]。1876年、司法省に転じ、司法大丞などを務め、1881年、判事となり東京上等裁判所判事に就任。その後、内務省に転じ、神奈川県五等警部を経て、1883年、群馬県警部長に就任。以後、群馬県書記官、三等警視、警視庁警察本署事務員、岡山県書記官、愛知県書記官などを歴任[1][3][4][5]。
1894年9月、岡山県知事に就任。治水事業、産業振興に尽力[6]。1897年4月、知事を非職となる[7]。1898年4月、島根県知事に就任。県立中学校、実業学校の設立など中等教育施設の整備に尽力[8]。1900年9月、茨城県知事に転任。県会と対立を続ける中、教育、産業振興に尽力[9]。1903年6月、奈良県知事に転任[3]。奈良帝室博物館評議員も務めた[1]。1906年7月、知事を休職となる[10]。1908年7月27日、休職満期となり退官した[11]。
その後、故郷の徳佐で余生を送り、青年団長などを務めた[1]。
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