氷上姉子神社
愛知県名古屋市緑区にある熱田神宮の境外摂社 ウィキペディアから
愛知県名古屋市緑区にある熱田神宮の境外摂社 ウィキペディアから
氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)は、愛知県名古屋市緑区大高町火上山にある神社。式内社で、旧社格は郷社。現在は熱田神宮の境外摂社。
「氷上山(火上山)」と称される丘陵上に鎮座し、熱田神宮の創祀以前に草薙剣(三種の神器の1つ)が奉斎された地といわれる。地元では「お氷上さん」と呼ばれ信仰されている。
祭神は次の1柱[1]。
社名の「氷上姉子」に関しては、『尾張国熱田太神宮縁記』(熱田宮縁記)においてヤマトタケルがミヤズヒメを想って詠んだとする次の歌が知られる。
このように『熱田宮縁記』の時点(鎌倉時代初期頃[注 7])では「氷上姉子」はミヤズヒメと同一人物とされており[11]、現在においても氷上姉子神社では祭神をミヤズヒメとし、当地の氷上山がミヤズヒメの館跡であるとしている。しかし『新修名古屋市史』では、この歌は本来8世紀頃に尾張南部に伝わっていた民謡であるとし、ヤマトタケル伝説とは無関係であったと指摘している[11]。この「氷上姉子」の原義は必ずしも詳らかでないが、『新修名古屋市史』では氷上の女性神官を指した語としたうえで、これが神格化されて祭神に転化し、さらに尾張氏の手のもとでミヤズヒメと習合してヤマトタケル伝説に組み込まれたと推測している[11]。
なお、『延喜式』神名帳では社名が「火上姉子神社」と見えており、社伝ではもと当地の地名は「火高火上(ほだかひかみ)」であったが、火災を忌んで現在の「大高氷上」に改めたとする[1]。しかし上代特殊仮名遣において「火」は乙類に属するのに対して、「氷」は甲類、「比加彌阿禰古」の「比」も甲類に属することから、実際には元から「氷」で平安時代以降に「氷」と「火」の表記が混ざったと見られている[11]。特にこの「氷上」を本来「日上」であると見て、氷上姉子神社の原始祭祀を日神信仰とする説もある[11]。
祭神の別説としては、日本武尊の姉の両道入媛命に比定する説がある[12]。また文明14年(1482年)の文書によれば、神仏習合期に本地仏は聖観音とされていた[13]。
熱田神宮の縁起である『尾張国熱田太神宮縁記』(鎌倉時代初期頃の成立[注 7])の伝承によれば、日本武尊は東征の途中で尾張国愛智郡氷上邑にある建稲種公の館に寄り、建稲種公の妹の宮酢媛(宮簀媛)を知って契りを結んだ。建稲種公は日本武尊の東征に従い、日本武尊とは別の道を行ったが帰途で亡くなったため、それを知った日本武尊は宮酢媛のもとへ急いで向かい、そこにしばらく留まった。その後、日本武尊は神剣を宮酢媛のもとに置いて大和へと出発したが、伊吹山で病にかかり、ついに伊勢国能褒野で亡くなった。宮酢媛はその後も神剣を守っていたが、年老いたため祠に祀ることとし、占地して社地を定め熱田社と名付けたという(熱田神宮の創祀)。また宮酢媛が亡くなった時には祠が建てられたが、これが尾張国愛智郡氷上邑にある氷上姉子天神であるという[14][13][10]。氷上姉子神社の社伝ではより具体的に、仲哀天皇4年に宮酢媛の館跡(現在の元宮の地)に宮簀媛命の神霊を祀ったのが氷上姉子神社の創祀になるとし、その後持統天皇4年(690年)に東方の現社地に遷座したとする[1][14]。
以上の伝承に対して、前述(「祭神」節)のようにミヤズヒメと氷上姉子との習合の経緯には慎重な見方がなされており、一説に実際の習合は8世紀以降とされる[11]。また考古学的には、古代に氷上姉子神社の北方には
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では尾張国愛智郡に「火上姉子神社」と記載され、式内社に列している[12]。「火上」の訓みは「ヒカミ」のほか「ホノカミ」とも振られる[12]。また『尾張国内神名帳』では「氷上姉子天神」と記載されている[14]。なお『和名抄』に記載される地名のうちでは、氷上姉子神社一帯は愛智郡成海郷に比定される[17]。
『百錬抄』[原 7]によれば、寛治7年(1093年)に尾張国の「火上社」の臥木が起き立ったことに関して朝廷で議定のことがあった[12][13]。また伝承では、平治2年(1160年)に源義朝が知多郡に赴く途中で太刀1口を当社に献上したという[12][13]。
社殿の造営に関して、史料では古く寛正2年(1461年)の造営のことが見える[14]。文明14年(1482年)の文書によると、神仏習合時代には境内に神宮寺・阿弥陀堂などの仏教施設が建てられていた[13]。そのほか永正6年(1509年)、天文12年(1543年)に修理のあったことが知られる[12]。
江戸時代に入り、貞享3年(1686年)には江戸幕府による熱田神宮造営に合わせて当社にも修理のことがあった[14]。『尾張名所図会』では当時の社殿の様子が描かれている[12]。また『寛文覚書』では、この頃の社領に「氷上大明神」の社内地として4町2反9畝歩の記載がある[14][13]。
明治維新後、明治5年(1872年)には近代社格制度において郷社に列したが、明治13年(1880年)に熱田神宮摂社に復した[12]。社殿は明治21年(1888年)に火災で焼失したため、明治26年(1893年)に熱田神宮別宮の八剣宮社殿が移築・転用された[14]。その後、昭和61年(1986年)に本殿の修理および渡殿・幣殿・拝殿・社務所の再建があって現在に至っている[12]。
氷上姉子神社の神職について、『熱田宮縁記』では海部氏とし、これを尾張氏同族とする[13]。一方で系図によれば、日本武尊従者の来目長が神主となり以後は来目氏(久米氏)が担ったが、九世孫の時に海部氏から養子が入って海部直(海部氏)に改姓、のち長昌の代(鎌倉時代後期頃)で久米氏に復姓したとする[13]。
正応5年(1292年)4月19日の社務定書写では、上記の長昌以下、社務・権家・別当・一老家・専祭家・公文家・供師家といった職掌が記載されている[13]。
現在の本殿は明治26年(1893年)に熱田神宮別宮の八剣宮社殿を移築したもので、昭和61年(1986年)に修理が加えられている[12]。渡殿・幣殿・拝殿・社務所は昭和61年の再建[12]。
境内周辺には熱田神宮の斎田(大高斎田)のほか、沓脱島跡・寝覚めの里といった神蹟がある。また、北方の愛知県道59号名古屋中環状線近くにはかつて一の鳥居(浜鳥居)があったが、現在は取り払われている。
現在は末社として次の4社がある[12]。かつて近世頃には、他に八剣宮・濱社(浜宮)など10数社があったという[12]。
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