概要
三国時代の呉が呉郡の無錫県以西の地を屯田として、毗陵典農校尉(ひりょうてんのうこうい)を置いた。
281年(晋の太康2年)、典農校尉を廃止し、毗陵郡(ひりょうぐん)が立てられた。毗陵郡は揚州に属し、郡治は丹徒県に置かれた。西晋の毗陵郡は丹徒・曲阿・武進・延陵・毗陵・曁陽・無錫の7県を管轄した[1]。311年(永嘉5年)、東海王司馬越の嫡子の名が毗といい、東海国が毗陵を食邑としたことから、これを避諱して毗陵郡は晋陵郡と改められ、その下の毗陵県も晋陵県と改称された。
431年(南朝宋の元嘉8年)、晋陵郡は南徐州に転属した。南朝宋の晋陵郡は晋陵・延陵・無錫・南沙・曲阿・曁陽の6県を管轄した[2]。
南朝斉のとき、晋陵郡は晋陵・無錫・延陵・曲阿・曁陽・南沙・海陽の7県を管轄した[3]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、晋陵郡は廃止されて、常州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、常州が毗陵郡と改称された。毗陵郡は晋陵・江陰・無錫・義興の4県を管轄した[4]。
620年(武徳3年)、唐が杜伏威を帰順させると、毗陵郡は常州と改められ、晋陵・義興・無錫・武進の4県を管轄した。742年(天宝元年)、常州は晋陵郡と改称された。758年(乾元元年)、晋陵郡は常州と改称され、晋陵郡の呼称は姿を消した[5]。
脚注
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