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死者の罪を問い、死体を儀礼的に斬り刻む刑罰 ウィキペディアから
死後処刑(英語: Posthumous execution)は、既に死んだ人間の罪を問い、その死体を儀礼的に斬り刻む刑罰。時に刑罰を超えた私的な復讐感情によって行われ、またある視点からは尊ばれている人物についても、後に死後処刑される場合もある。
キリスト教世界では、審判の日に復活するためには、神に向かって体が上昇していけるよう東向きに埋葬されている必要があると考えられている[1][2][3]。したがって、損傷のない遺体を切断し、復活の可能性を奪う死後処刑は刑罰として有効な方法の一つであったと言える[4][5]。
李氏朝鮮の頃から剖棺斬屍(ぼうかんざんし、朝鮮語: 부관참시)と呼ばれる刑罰が存在する。これは既に死んだ人間の罪を問い、墓を暴いて屍を斬り刻むというものである[16]。これは死者の名誉を重要視する儒教文化の影響と考えられ、死刑の次に重い刑罰と考えられている[16][17]。現代の北朝鮮においては軍需工場で発覚した問題を発生当時の責任者だった故人を剖棺斬屍に処すことで解決しており[18]、また2020年に韓国の金元雄光復会会長が親日派の改葬(破墓)論を唱えたこともある種の剖棺斬屍であると見る向きもある[19][20]。
一般的に中国では死後に罪が明らかになったとしても、捜査されないことになっていた。そのことが『水滸伝』や『東周列国志』では「已死勿論」と表されている[21][22]。しかし、反逆のような重大な罪であり、かつ罪人が発覚時に死亡している場合は当局は法律に従って遺体に拷問刑を課すことができた。また死刑囚が処刑前に死亡した場合も、罪の重さに応じて死後処刑を課すか否かを決定することができた。
明代の1588年(万暦16年)になると死後処刑は主に父母及び祖父母を殺した者(尊属殺)にのみ適用されるようになる。清代にはそれに従った上で、適用範囲を明確に強盗や山賊に広げていった。しかし死後処刑は1905年の刑法改革で廃止された。
平安末期の平治の乱では、信西が敵に追われて穴を掘り自害した後、遺体を掘り起こされて首を晒された。江戸時代には、重大犯罪を犯して死亡した者は、御定書百箇条第八十七条に基づき罪状の吟味が終わるまで死体を桶に入れて塩漬けにして仮埋葬を行った。吟味が終わり刑が確定すると、死体を掘り起こして刑を実行した。具体例としては大塩平八郎の乱の指導者のうち19人または20人が磔、17人が獄門、3人が死罪となったが、執行時点で生存していたのは1人のみであった。それ以外の者(大塩平八郎を含む)は、上記の手続きを経た死後処刑だった[29]。
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