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鎌倉時代前期から後期の公卿。正親町三条実蔭の嫡男。母は道寛(法印、道宣)の娘。正二位・権大納言。正親町三条家3代 ウィキペディアから
正親町三条 公貫(おおぎまちさんじょう きんつら、旧字体:正親町三條 公󠄁貫)は、鎌倉時代前期から後期にかけての公卿。参議・正親町三条実蔭の嫡男。父・実蔭は参議在任中に43才で亡くなったが、公貫は政治的能力に長けた上長命であったために正二位・権大納言に至った。
暦仁元年(1238年)、誕生。しかし、ほどなく父が参議のまま薨去したため左大臣・洞院実雄の猶子となった。
延応元年(1239年)従五位下に叙爵。仁治4年(1243年)に従五位上に叙せられ、寛元4年12月(1247年1月)侍従に任官。宝治2年(1248年)正五位下に叙せられた。
建長4年(1252年)近江権介、讃岐国が実雄の知行国となると讃岐守を兼任し、左近衛少将に任ぜられる。建長5年(1253年)には従四位下、建長7年(1255年)に従四位上に昇叙され、康元元年(1256年)右近衛中将に転じた。正嘉2年(1258年)に正四位下に叙せられた後、昇進が滞るが、文永11年(1274年)に蔵人頭に補任され、翌建治元年(1275年)参議に任ぜられて公卿に列した。
建治2年(1276年)になると、従三位・土佐権守となる。建治3年(1277年)には正三位に昇叙。弘安4年(1281年)讃岐権守を兼ね、弘安7年(1284年)に従二位に叙せられる。弘安9年(1286年)には父の極官である参議を超過して権中納言に任ぜられた。しかし、弘安10年(1287年)に権中納言を辞退して翌年に正二位に叙せられた。
正応5年(1292年)に日野資宣が薨去するとその後任として民部卿に任ぜられた。永仁3年(1295年)これを辞退して再び散位となるが、正安元年12月(1300年1月)に後伏見天皇元服後宴の上寿役を務めて権大納言に昇進した。正安2年(1301年)権大納言を辞任して、嘉元元年(1303年)9月に出家。法名は空圓という。
正和4年(1313年)2月29日に78歳という高齢で薨去した。正親町三条家を継いだ三男・実躬の日記『実躬卿記』には父である公貫のこともよく記されている。
※以下、『公卿補任』の記載に従う。
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