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諏訪市にある国宝(美術品) ウィキペディアから
楽焼白片身変茶碗(らくやきしろかたみがわりちゃわん)は、日本の国宝。楽焼の茶碗で、銘は不二山(ふじさん)。17世紀(江戸時代)、本阿弥光悦の作。別名に振袖茶碗(ふりそでちゃわん)がある。
本作は楽焼の中でも白釉を用いた白楽(しろらく)と呼ばれるもので、年代は17世紀(江戸時代)、大きさは高さが8.9センチメートル、口径が11.6センチメートル、高台が5.5センチメートルである[2][3][5][6]。素地は荒い砂が混じった白土で[4]、始めに「手捏ね」(てづくね)で成形し、へらを使って側面を縦に削って整形[2]。その後、透明性低火度の白釉を厚く掛けて焼成を行ったが、偶然にも窯の中で茶碗の下半分が内側・外側ともに炭化し、黒色(暗灰色)に変色した[4][2]。内側の一部には鉛釉が変化を起こしたことによる銀化も見られる[2]。
本作の制作者である本阿弥光悦は、刀剣の鑑定を本業とする傍ら陶芸にも秀で[2]、彼の作る茶碗を欲しがる者も多くいたが、容易に作ることはしなかった[6]。彼の作品は10点ほどが現存し、その中でも本作は一番の作と言われ名高い[2]。光悦が娘を大阪に嫁がせた際、支度の代わりにと本作を精魂込めて制作した[2]。持参する際、振袖に包んだことから振袖茶碗とも呼ばれており、その切れ端も現存している[2]。
箱には「不二山 大虚菴」と記されている[2]。大虚菴とは光悦の号で[2]、『原色陶器大辞典』のように大虚庵と表記している文献もある[6]。この箱書は光悦の自筆によるものであり、光悦の印(角黒印)が押されてある[6]。制作者が自ら箱書をしたものを共箱(ともばこ)というが、これは日本の陶芸史上初の試みである[2]。「不二山」という銘の由来については、その風情を雪の掛かった富士山に見立てたとする説(金森得水)、あるいはこれ以上ない出来映えを自慢したかったとする説(草間和楽)がある[6]。
天保9年(1838年)の日付の譲り状が箱に貼付されており、比喜多権兵衛により高原治兵衛・井上源三郎を経て、姫路藩藩主・酒井忠学の手に渡り、以後近年まで酒井家に伝わった[4][2]。1952年(昭和27年)11月22日付けで国宝に指定[4]。和物の茶碗で国宝の指定を受けたものは他に志野茶碗 銘卯花墻があるのみである[2]。現在は長野県諏訪市にあるサンリツ服部美術館に収蔵されている[4]。同館では本作を白楽茶碗(しろらくちゃわん)とも称し[2]、常設展示はせず[7]、企画展にて展示を行っている[8]。
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