楓川
東京都中央区にあった運河 ウィキペディアから
東京都中央区にあった運河 ウィキペディアから
楓川(かえでがわ[注釈 1])は、東京都中央区にかつて存在した川(運河)である。日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2km の河川であった。第二次世界大戦後の1960年代に埋め立て(干拓)が行われ、旧河道を首都高速都心環状線が通る。
慶長末年に江戸の建設が進められるまで、楓川のある場所は江戸前島の東海岸であった[1]。第二次天下普請の際に、江戸前島東方の水面が埋め立てられた(現在の八丁堀・新川地区[注釈 2]。以後、八丁堀埋立地とする)[2]が、江戸前島と八丁堀埋立地に水路が埋め残された。この水路は慶長17年(1612年)に運河として整備され[1]、のちに楓川と呼ばれることになる[2][3]。
なお同時期に、建設資材運搬のために江戸前島東岸(あるいは楓川)から、江戸前島の尾根筋西側に開削された[2]江戸城外濠に向かって9本の舟入堀が掘られた[1]。これらの舟入堀は、築城が完了して役割を終えると、元禄3年(1690年)までには中央にあった1本(のちに紅葉川と呼ばれる)を残して埋め立てられた[1]。
慶長11年(1606年)、楓川の西岸(江戸前島側)に江戸城の建築資材を扱う材木問屋が移された[注釈 3][4]。楓川西岸北部一帯(現在の日本橋一丁目から京橋三丁目にかけて)は「本材木町」と呼ばれ[注釈 4]、その河岸は「本材木河岸」と呼ばれた[4][注釈 5]。この町の材木問屋には、行刑用材木の上納が義務付けられるとともに、長い木材を建て置くことが許可されていた[4]。延宝2年(1674年)には、本材木町二丁目と三丁目の間に魚市場の設立が許可され、「新肴場」(「新場」)と呼ばれた[4]。
楓川の東岸(八丁堀埋立地側)には、江戸時代初期には綾部藩九鬼家上屋敷のほか、向井将監(向井忠勝)、向井右衛門、間宮虎之助、大浜民部、小笠原安芸、松平中務、島田弾正(島田利正)などの諸家の屋敷が立ち並んだ[1]。これら諸家は幕府御船手を担っており、江戸湊[注釈 6]を出入りする船舶の監視にあたったほか、八丁堀埋立地に移された寺院[注釈 7]の取り締まりなどにもあたった[1]。のちに、武家地の間に坂本町・三代町・松屋町などの町人地が起立し[4]、その河岸が「楓河岸」などと呼ばれた[5][注釈 8]。
1884年(明治7年)の『東京府志料』には、日本橋川筋から京橋川筋に至る「海運橋川筋」として記載される[1]。押送船29隻、伝馬船6隻など、「舟筏」が合わせて77隻あったとされ、舟運の盛んであったことが知られる[1]。1883年(明治16年)にはそれまで通称であった「楓川」が正式な河川名称となった[2][1]。
1921年(大正10年)の河川航通調査では、楓川は日本橋川と京橋の連絡路として、依然重要な役割を担っていたことがうかがえる[1]。関東大震災後には、復興事業として運河の改修・開削が行われたが、この際に楓川は幅員33m・深度1.8mに整備され、また「楓川・築地川連絡運河」が開削されたことで、楓川・京橋川・桜川と築地川の舟運が便利なものとなった[2][1]。
第二次世界大戦後のモータリゼーションの進行に伴い、水路は次第に重要視されなくなった。1960年(昭和35年)5月、楓川と築地川の埋立免許が下り、高速道路が建設されることとなった[1]。1962年(昭和37年)に首都高速都心環状線汐留・日本橋本町間が供用を開始した[1]。
楓川は干拓した上で川底に道路が建設されたため、かつて川にかかっていた橋にはそのまま跨道橋となったもの(新場橋、久安橋、宝橋、松幡橋、弾正橋)もある[1]。
「楓川」の名は、紅葉川と交差することからの呼称であるとされる[3]。
俗称としては「海運橋川」や「材木町川」とも呼ばれた[1]。
「楓川」の読み方については、「かえでがわ」と「もみじがわ」が混在している[6]。「紅葉」と「楓」が縁語であること、紅葉川が江戸城紅葉山と結びつく重みのある名であること、本来の紅葉川が重要度を失いつつ江戸時代後期には埋め立てられ消滅する一方で、楓川が重要な水路として残ったことが混用の原因という推測は可能である[6]。
中央区が管理する旧楓川沿いの公園や区営住宅が「かえでがわ」と読まれる一方、中央区教育委員会が設置した看板では「楓川」に「もみじがわ」と振り仮名が振られ、中央区観光検定公式テキストでも「もみじがわ」の読みを採用している[6]。かつての楓川に並行する、昭和通りと都心環状線の間の街路(日本橋郵便局裏から久安橋まで)には、2003年に中央区によって「江戸・もみじ通り」の愛称が定められている。
1908年に楓河岸付近の坂本町(現在の日本橋兜町)に設立された「東京市日本橋区楓川専修女学校」は、その後数度の校名変更を経て、1946年に「東京都立紅葉川高等女学校」と改称している(翌年に東京都立紅葉川高等学校となり、現在は江戸川区に移転している)。
日本橋川側(北側)から
なお、弾正橋以南に「楓川」の名を冠した「楓川新富橋公園」があるが[4]、この区間はかつての「楓川・築地川連絡運河」にあたる(築地川参照)。
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