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森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3月22日 - 1934年(昭和9年)1月23日)は、兵庫県出身の日本の土木技術者。大阪築港工事に8年間従事し、鉄桟橋、神戸築港、防波堤の工事にあたった[1]。
但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)に生まれる[2]。新治郎とちくの次男[3]。5歳で父を亡くす。明治13年に豊岡小学校に入学[3]。学業が優秀だったことから、地元の資産家の援助により東京府尋常中学校に入学する[2][注 1]。さらに第一高等中学校に進むが、資産家が事業に失敗したことで、苦学を余儀なくされた[2]。その状況でも帝国大学工科大学土木工学科に進学し[2]、1898年(明治31年)に卒業した[1][注 2]。この間の学費は、出身小学校長の弟だった土木技師の沖野忠雄から援助された[2]。
卒業後は、大阪市築港事務所技師となる[1]。この就職は、沖野から大阪の築港事業に携わることを命じられたためであった[2]。
1906年(明治39年)には大蔵省技師となり、翌年には欧米に出張した[1]。この異動は神戸築港の建設責任者として沖野に招聘されたもので、出張は築港の工法を学ぶことが目的だった[2]。森垣はオランダのロッテルダム港で使用されたケーソン工法を持ち帰り、神戸の現場に日本で初めて導入した[2]。
1913年(大正2年)、神戸出張所在勤となる[1]。1919年(大正8年)には内務省技師を兼務した[1]。
1923年(大正12年)には神戸市港湾部長、都市計画部技師長、のち土木部長となる[1]。この間、1924年(大正13年)再び欧米を視察した[1]。神戸では道路整備や阪神電気鉄道本線の地下化、苅藻島の築造にも携わった[2]。
出典は『人事興信録』4巻・8巻[要文献特定詳細情報]、『森垣亀一郎伝』掲載の系図[要ページ番号]、瀬戸本淳「神戸秘話 6 多彩な人物がさまざまな業界で活躍」『月刊神戸っ子』2017年6月号[4]。
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