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染色体説(せんしょくたいせつ、英: chromosome theory (of inheritance))、遺伝の染色体説とは、遺伝の様式を染色体の性質や挙動によって説明する学説。この学説は遺伝子が染色体上にあることを示しており、現在生物学では当然の前提とされる[1]。メンデルの法則の実証、古典遺伝学の発展、分子遺伝学の基礎形成に深く関連したことで、生物学において重要である。ただしミトコンドリアDNAなど細胞核外の遺伝因子による細胞質遺伝はこれに従わない[2]。
染色体説はバッタの染色体を用いた細胞学的観察からウォルター・サットン(Walter Sutton)によって1902年に提唱され、トーマス・ハント・モーガン(Thomas Hunt Morgan)らのショウジョウバエを用いた遺伝学的研究により、1920年代ごろ確立された。
染色体説提唱の背景には、全ての細胞は細胞から生じるとする細胞説と、当時再発見されたばかりのメンデルの法則がある[3]。20世紀初頭、黎明期の遺伝学と、先行して発展していた細胞学の融合から、遺伝の染色体説が誕生した[3]。
メンデルの法則は1865年に報告された[4]が、長い間歴史に埋もれ、「再発見」されたのは35年後の1900年である(詳しくはメンデルの項目を参照)[5][6][7]。遺伝の連続性が保証される背景には細胞説があり、古典的な細胞学は、染色・観察技術の発達とともに[8]19世紀末までには発展を遂げていた[9]。またアウグスト・ヴァイスマン(August Weismann)は遺伝因子は生殖細胞にあるとする生殖質説を提唱しており、細胞核に遺伝物質があることが予測されていた[10][11][12]。1842年に発見された[13]染色体に関しても、続く研究でさまざまな生物種における種類や数、細胞分裂において母細胞から二つの娘細胞へと受け継がれる様子などの知見が蓄積しつつあった[11][14](ヴァルター・フレミング (Walther Flemming)の項参照)。
このように19世紀末までには染色体説の下地ができていたが、遺伝の染色体説を主張するためには、配偶子形成における染色体の挙動を示す必要があった[15]。遺伝の一過程である受精では、卵子と精子の融合によって染色体数が倍加するため、それぞれ半数の染色体を親から受け取るはずである[15]。しかし、この過程に関する知見がまだ得られていなかった[15][11]。
遺伝の染色体説を明確に提唱したのはウォルター・サットン(Walter Sutton)の1902年の論文が最初である[16]。彼はバッタの一種 Brachystola magna を用いて減数分裂の細胞学的な研究を行い[17]、配偶子形成における染色体の挙動がメンデルの法則に従うことを見いだした[16][17][18]。メンデルの法則が再発見されて間もない頃である[19][20]。
サットンはこの昆虫では染色体が大きくはっきりと観察できる利点を利用し[21][22]、配偶子形成における染色体の観察を行った。1902年の論文『 Brachystola magna における染色体群の形態について』において、配偶子形成時の細胞分裂では相同な染色体(相同染色体)どうしが対を作っており、これらが配偶子に一つずつ分配され、染色体数の半減、すなわち減数分裂が起こることを示した(右図、および減数分裂の項目参照)[17][15]。この論文の最後の段落でサットンは「この現象がメンデルの法則に従っており、これが遺伝の物理的基盤である可能性を示唆し、この主題について場を改めてすぐに紹介したい」と述べている[18][23]。そして翌年の論文『遺伝における染色体』では、この仮説をより発展させ、それぞれの染色分体がランダムに分配されることから、メンデルの法則を説明した[16]。
配偶子がもつ染色体の組み合わせは、体細胞の相同染色体対をnとしたときに2のn乗通りあり[24]、次世代における染色体の組み合わせはその2乗となる[25]。つまり4組の相同染色体をもつ場合、配偶子は 42=16、次世代は 162=256 通り生じる[24]。これはメンデルが交配実験で得た結果と合致する[26](具体例はメンデルの法則を参照)。さらに、この論文では一つの染色体には多数の遺伝形質が存在することを予言し、またそれらは不分離だろうと述べている[注釈 1][26]。
このようにして、25歳の大学院生だったサットンによって初めて、当時知られていた細胞学の事実が、メンデルの法則という遺伝の説明に適用されたのである[20]。後に遺伝学的手法により染色体説を実証したモーガンやアルフレッド・スターティヴァント(Alfred Sturtevant)は「サットンの仮説で染色体説は既に完成していた」と著書や講演の中で述べている[28][16]。
サットン以外にも染色体説を考えていた学者は少なからずいた。E. B. ウイルソン(E. B. Wilson)は1902年の論説『メンデルの遺伝の原理と生殖細胞の成熟』で、サットンの他にW・A・キャノンとテオドール・ボヴェリ(Theodor Boveri)に触れている[29][30]。コロンビア大学の学生であったキャノンは、ニューヨーク植物園の研究員時代に、サットンとは独立に、綿花を用いた妊性の実験から同様の結論に到達していた[23][31]。彼の論文は1902年に発表されている[23]。 ウィルソンが染色体説を「サットン-ボヴェリの染色体説」と呼んだことからもわかるように、ドイツの細胞学者ボヴェリも同時期に同様の構想をもっていたと言われる[19]。しかし彼はこの時期には直接的に染色体説を示唆する論文を書いていない[19]。ただしウマノカイチュウやウニを用いて研究を行っており、受精卵の染色体は卵と精子から半分ずつ由来することや、卵の細胞核を除いて受精させてもある程度まで発生が進むことを観察していた[32]。これらは染色体説を支持する観察である[33]。
サットンの染色体説に関する提案は、詳細なものでは最初のものであった[26]が、すぐには受け入れられなかった[11]。理由はいくつかある。まず、当時はメンデルの法則が再発見されて間もないころ[19][15]であり、遺伝子の存在に対してすら懐疑的な学者もいた[34]。染色体説を実証したモーガンも粒子遺伝をすぐには受け入れなかった[35]し、自らが証明することになる染色体説に対しても確証する結果が得られるまで長らく懐疑的だった[36]。その理由としては、サットンの仮説が実証がなされなかったことである[37]。「遺伝学 Genetics」という言葉が作られるのは1906年のことである[38]。
染色体が遺伝子の担体であることを実証したのはトーマス・ハント・モーガン(Thomas Hunt Morgan)と彼の研究室が輩出した、いわゆるモーガン学派の研究者達である[39][40]。1904年、ウィルソンの招請によりコロンビア大学に移ったモーガン[38]は、1908年ごろからショウジョウバエを用いた遺伝学研究を始める[41]。彼らは飼育が容易で世代交代の速いショウジョウバエを用いて[42]遺伝学を発展させ、変異体の交配による遺伝学的解析と染色体の観察から、染色体説を実証していく[43]。古典遺伝学の発展と染色体説の実証は、彼らの研究成果の表裏であると言うこともできる[44]。また、染色体説を提唱したサットンを輩出した細胞学の大家ウィルソンとの交流は、モーガン学派による染色体説の発展を促進した[38]。
モーガンは1910年に最初の突然変異体 white (白眼)を発見し[45]、これを用いた交配実験の結果から遺伝子と染色体の関連性を強く示唆する結果を得た(右図参照)[46]。ショウジョウバエのX染色体は1908年にウィルソン研究室のネティ・スティーヴンス(Nettie Stevens)によって発見されており、メスはX染色体を2本、オスは1本もっていることがわかっていた[47]。純系赤眼のメスと白眼のオスを交配させると、次世代ではオスメスともに赤眼の個体が得られた。これは赤眼が白眼に対して優性なためである。ここで得られたメスと赤眼のオスを交配すると、次世代においてメスは全て赤眼だったが、オスでは赤眼と白眼が半分ずつ生まれた[注釈 2][48]。白眼の変異がX染色体上にあり、伴性遺伝するためと考えると、この現象をうまく説明できる[47][49]。この結果をより普遍化すると、染色体と遺伝との関連性、すなわち染色体説が明確に示唆されていると言える[27]。
1911年以降、カルビン・ブリッジス(Calvin Bridges)、スターティヴァント、ハーマン・マラー(Hermann Muller)が学生として研究室に参加[注釈 3]し、多くの突然変異体を発見しはじめる[51]。これらの変異体の交配実験の結果から、ある2つの変異体の間では、遺伝の法則の1つ「独立の法則」に従わない例が見いだされた([27]。既にサットンによって予測されていた[26]が、実際に得られたこの結果と考察から 連鎖(連関ともいう;genetic linkage)という概念が作られた[27]。多くの変異を用いて交配実験を行った結果、それぞれの変異は4つの連鎖群に分けられたが、ショウジョウバエの染色体は4組あり、連鎖群の数と同じであった。これは遺伝子が染色体上にあることを裏付ける証拠となった[27][52]。独立の法則はそれぞれの形質が独立して遺伝するというものであり、メンデルは別々の染色体に由来する形質を観察していたため法則が成り立ったと考えられる[53]。
交配では組換え(recombination)が起こることも見いだされた。組換えとは同じ連鎖群に含まれる遺伝子の組み合わせが、入れ替わる現象を指す[54][27]。これに先立って、減数分裂において染色体の一部が入れ替わる交叉(交差あるいは乗換えともいう;crossover)が観察されており[55]、交叉を組換えの物理的現象と考えるとうまく説明がつく[56][57]。つまり遺伝子が染色体上に線状に配置されており、組換えは交叉により染色体の一部が入れ替わったと考えられるのである[55]。また、近くにある遺伝子ほど組換えが起きにくいという推測から、スターティヴァントは線状に遺伝子の場所を特定することを発案し、遺伝子地図が作られていった[57]。組換え価の単位として用いられる cM(センチモルガン)は、モーガンの業績を讃えてつけられたものである[58]。
さらにブリッジスによる染色体不分離(non-disjunction)の発見が、染色体説を確固たるものにした[59][60]。染色体不分離とは、細胞分裂の際に染色体が均等に分かれない結果として、2個ある娘細胞のうち片方にだけ染色体が移動する現象を指す[注釈 4][61]。減数分裂においては第一段階で相同染色体が分離しない、あるいは第二段階で染色分体が分離しない現象が起こり得[注釈 5][61]、例えば性染色体では XXY や XO といった組み合わせをもった個体を生じる[62]。ブリッジスは、ショウジョウバエの交配実験において、まれな例外ではあるが、遺伝の法則に従わない形質を示す個体が得られることを発見した[63]。これらの染色体を観察すると染色体数が異常であり、染色体不分離を起こした配偶子から得られた個体であると考えられた[63][64]。これはすなわち、染色体の不分離という例外的な振る舞いが、遺伝子の例外的な遺伝と対応付けられることを示しており、染色体説の決定的な証拠となったのである[63][65]。
伴性遺伝と性染色体、連鎖群と染色体数、組換えと交叉、そして染色体不分離の実験と観察から得られた結果は、遺伝子が染色体上にあるとする考えが妥当であることを示し、染色体説を受容させるに十分であった[43]。このようにして、1920年代までには「遺伝子は染色体上に線状に配列している」ことが、事実として認められるようになった[40]。この業績により、モーガンは1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞する[66]。
一方、モーガンがノーベル賞を受賞するよりも前、テキサス大学の T. ペインター(Theophilus Painter)によって多糸染色体の詳細な観察が行われた[67][68]。双翅目昆虫の幼虫にある唾液腺という組織では、細胞が細胞分裂を伴わない染色体の増幅を行うため、通常よりも太く大きい染色体を観察することができる[69]。この巨大な染色体を用いた染色体異常などの観察結果も、モーガンらの説を強く裏付けることになった[70]。
サットンが提唱した染色体説は、モーガンの貢献により、実証された[40]。しかし一方で、遺伝子の実体は不明のままだった[40]。モーガンは、ノーベル賞受賞講演において遺伝子の物理的実体にはあまり関心が払われていないことを指摘している[67]。
遺伝子の物理的実体が明らかにされるまでには、染色体説の実証からさらに数十年の時が必要であった[71]。この間、生化学[72]や構造生物学[73]の発展に加え、細菌遺伝学[74]やファージ遺伝学[75]の発展により、染色体を構成するタンパク質と DNA のうち、DNAこそが遺伝情報の担体であることが明らかになった[76][77][78]。
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