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林田 哲雄(はやしだ てつお、1899年(明治32年)10月6日[1][2][3][注釈 1] ‐ 1958年(昭和33年)2月14日[1][2][4]) は、大正から昭和期の農民運動家・政治家。衆議院議員。
愛媛県[4]周桑郡小松村新屋敷[1](小松町[1][3]新屋敷[2]を経て現西条市小松町新屋敷)で、明勝寺住職・林田孝純の二男として生まれた[1][2][3]。幼くして父が死去し母に養育された[1][3]。小松小学校[1]、西条中学校[1][3](現愛媛県立西条高等学校)を経て大谷大学に進学[1][3]。1922年(大正11年)全国水平社創立大会に参加し、大学を中退して帰郷し水平運動を起こした[1][2]。
1922年設立の日本農民組合に1923年(大正12年)に加わり農民運動を推進し[1][2][3]、1925年(大正14年)別子銅山大争議を支援した[1][2]。1926年(大正15年)4月、日本農民組合愛媛県連合会を組織し会長に就任[1][2][3]。同年、労働農民党愛媛県連合会を結成[1][2]。1927年(昭和2年)日本農民組合中央執行委員、労働農民党中央委員に就任[1][2][3]。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙で愛媛県第2区に労働農民党候補として小岩井浄を擁立し落選したが8430票を得た[1][2][5]。その直後に検挙され[1][2]、1930年(昭和5年)八・一五事件で2年8ヵ月の刑となり[1]、その他、東予地方の小作争議指導により[3]通算70余回の検束と5年2ヶ月の入獄を経験した[1][3]。
1938年(昭和13年)小松町会議員に選出された[1][3][4]。戦後、日本社会党に加わり同愛媛県支部連合会初代会長に就任[1][2]。1946年(昭和21年)4月、第22回総選挙で愛媛県全県区から社会党公認で出馬して当選し[1][2][3][6]、衆議院議員に1期在任した[4]。この間、社会党中央執行委員などを務めた[4]。その他、小松町信用組合監事、愛媛県農地委員、同県失業対策委員などにも在任した[4]
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