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日本の江戸時代後期の大名。美作津山藩4代藩主松平長孝(出雲広瀬藩3代藩主松平近朝三男)次男で、広瀬藩(出雲松江藩分家)6代藩主松平近貞養子。広瀬藩7代藩主。従五位下淡路守 ウィキペディアから
松平 直義(まつだいら なおよし/ただよし[1])は、江戸時代後期の大名。出雲国広瀬藩7代藩主。広瀬松平家7代。
美作国津山藩主・松平長孝(出雲広瀬藩第3代藩主・松平近朝の三男)の次男として誕生。母は藤堂高治の娘(藤堂高朗の妹)。初名は長善(ながよし)、のち近義(ちかよし)[2]、直義と改名。通称は主税(ちから)。
安永2年(1773年)、先代藩主・松平近貞の養子となり、同年のうちに家督を継いだ。米沢藩主・上杉治憲(鷹山)とも仲が良く、直義自身も才能に優れ、藩政で手腕を見せ、広瀬藩中興の君と言われた。また、文化人としての側面もあり、茶の湯に興味を持っては、同じく出雲松江藩主で親戚にあたる松平治郷(不昧)の門人となっていた。
享和3年(1803年)10月22日に死去。享年50。法号は本覚院。生前、50歳を過ぎた近貞に(つまり直義に家督を譲った後に)実子の直寛が生まれ、直義はこれを養子として迎えており、死後はこの直寛が跡を継いでいる。
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