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深溝松平家第2代当主 ウィキペディアから
松平 好景(まつだいら よしかげ)は、戦国時代の武将。又八郎、大炊助と称す。深溝松平家2代。三河国額田郡深溝城主(愛知県額田郡幸田町深溝)。
初代当主・松平忠定の子として誕生。
松平宗家代々に仕える。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは松平元康(徳川家康)に従い、大高城撤退で殿軍を務める。元康の三河平定のため、永禄4年(1561年)、中島城(愛知県岡崎市中島町)主・板倉重定を攻めて落城させ、戦後、戦功により中島城を与えられ、嫡男・伊忠を入れた。同年4月15日、東条城の吉良義昭が酒井忠尚の守る上野上村城(豊田市上郷町)を急襲したため、元康の命により、伊忠を援軍に向かわせる。しかし、今度は手薄となった中島城を攻められ、深溝城にいた好景は一族郎党50騎ばかりの兵で向かい、中島城に入るが、それを吉良義昭方は中島の町裏に300人余の兵で待ち伏せた。好景は名の知れた勇士で、力戦奮闘して逃げる敵を深追いし、幡豆郡永良(西尾市下永良町)の善明堤近くで縦横に奮戦していたときに、馬の腹帯が切れて鞍が動き、馬から飛び降りたところを尾関修理の矢が当たって深手を負い、山岡薬医に首を切られて討死した(善明堤の戦い)。享年44。弟の定政、定清、好之、景行や家臣・板倉好重(勝重の父)らも共に討死した。
墓所は深溝松平家の菩提寺・瑞雲山本光寺。法名は「光真院殿弧峯源秀大居士」。好景の討死した地(西尾市下永良町鎮守)には、松平好景戦死之地入口の石碑と顕彰碑(継植松碑)がある。また、向野墓所(旧本光寺、額田郡幸田町深溝)には、父・忠定の首塚(源元公墳松)と好景の首塚(源昭公墳松)が並んであり、彼の首が埋められていると考えられる。
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