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松井 太久郎(まつい たくろう、1887年(明治20年)12月3日 - 1969年(昭和44年)6月10日)は、日本陸軍の軍人。陸士22期、陸大29期。最終階級は陸軍中将。
福岡県出身。農業・松井勘太郎の三男として生れる。東筑中学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第14連隊付となる。1917年11月、陸軍大学校(29期)を卒業。
以後、1918年8月、第12師団副官としてシベリア出兵に参加。参謀本部員(支那課)、関東軍司令部附、浦塩派遣軍参謀、朝鮮軍司令部付(ウラジオストク駐在)、朝鮮軍参謀、欧州出張、陸軍省新聞班、関東軍参謀、陸軍技術本部付、近衛歩兵第2連隊付、大阪連隊区司令官、独立歩兵第12連隊長、支那駐屯軍司令部附(北平特務機関長)、北支那方面軍司令部附、関東軍司令部附(張家口特務機関長)などを歴任し、1937年11月、陸軍少将に進級。
駐蒙兵団司令部付、近衛歩兵第1旅団長、関東軍司令部付(満州国軍最高軍事顧問)などを経て、1940年8月、陸軍中将となった。同年10月、第5師団長に親補され、北部仏印進駐を担当。太平洋戦争では南方に派遣され、マレー作戦・シンガポール攻略に従軍した。さらに、支那派遣軍総司令部付(汪政府最高軍事顧問)、支那派遣軍総参謀長、第13軍司令官を勤め、上海で終戦を迎えた。1946年7月、復員。マレー、シンガポール占領時、日本軍将兵による多数の華僑虐殺事件が起き、このため戦後、多数の現場責任者や実行者らが戦犯に問われ、またマレーシア、シンガポール両国との賠償問題を引き起こしたものの、彼自身は戦犯に問われることはなかった。
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