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杭全荘(くまたのしょう)は、摂津国住吉郡(現在の大阪府大阪市平野区付近)にあった荘園。後世、平野荘(ひらののしょう)とも呼ばれた[1]。
『和名抄』に登場する住吉郡杭全郷の地にあたるとされ、元々は坂上田村麻呂の所領であったとされる。そのため、田村麻呂の子孫を称する坂上氏が領していたが、後に藤原摂関家が入手し、永承年間に藤原頼通の手で平等院に寄進されたとされる。ただし、その後も摂関家領であったことを示す文書が残されており、実際に寄進されたのは同荘が平等院領として記録に現れる弘安4年(1281年)以前という事しか分かっていない[1]。嘉元2年(1304年)には別称である「平野荘」の名前も登場するようになる[1]。
平等院は現地の有力農民を田所職に任命して実際の経営に当たらせていたようであるが、その田所職の経営も不安定で、田所職が次々に転売され、応永元年(1394年)には大徳寺の塔頭である如意庵に渡ってしまう。これによって平等院領の一部が事実上の大徳寺領になる事態が発生し、しかも如意庵側が農民達から土地の買い取りを行ったためにその影響力が増大する一方であった。加えて農民が杭全神社の宮座を足がかりに惣を結成して発言力を強めるようになり、平等院の支配が衰えて事実上の百姓請が行われるようになる[1]。
やがて、中世後期には旧領主である坂上氏の子孫を自称した有力な7家が惣の自治を主導する体制を固め、平野郷町の原型を形作るようになっていった[1]。
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