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387-450, 中国・東晋から南朝宋にかけての官僚、軍人 ウィキペディアから
西晋の征南将軍杜預の子の杜耽の曾孫にあたる。義熙13年(417年)、桂陽公劉義真が長安に入ると、杜驥は雍州主簿として召された。永初3年(422年)、劉義真の下で車騎行参軍となり、員外散騎侍郎の位を受けた。元嘉初年、江夏王劉義恭の下で撫軍刑獄参軍となった。尚書都官郎に転じ、長沙王劉義欣の下で後軍録事参軍をつとめた。
元嘉7年(430年)、到彦之の北伐に従軍し、建武将軍の号を受けた。洛陽の守備を命じられたが、糧食の不足に苦しみ、到彦之が敗退すると、杜驥も撤退を図った。敗戦の罪を着せられることを恐れて、姚聳夫を騙して洛陽に入らせ、洛陽失陥の責任を姚聳夫に押しつけた。
後に通直郎・射声校尉となった。元嘉16年(439年)、武陵王劉駿の下で征虜諮議参軍となった。元嘉17年(440年)、都督青冀二州徐州之東莞東安二郡諸軍事・寧遠将軍・青冀二州刺史に任じられ、善政で知られた。元嘉24年(447年)、建康に召還されて左軍将軍となり、兄の杜坦が代わって青冀二州刺史となった。元嘉27年(450年)、死去した。享年は64。
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