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日本の岩石学者 ウィキペディアから
杉 健一(すぎ けんいち、1901年5月15日 - 1948年7月6日)は、日本の岩石学者。学位は、理学博士(1932年)(学位論文「On the metamorphic facies of the Misaka series in the vicinity of Nakagawa, Prov. Sagami(相模中川附近に於ける御坂層起原の変成岩相に就て)」)。
日本岩石学は、明治初期の小藤文次郎を基とし、1910年代後半神津叔祐、坪井誠太郎を経て鈴木醇、富田達、“杉健一”が1920年代に活躍し始め、基礎を築いた[1]。
杉の変成岩岩石学の日本輸入移植は、特に現代の岩石学の基盤を築き上げた大表者と目されるに至ったのである[1]。また、杉博士の学問は、温和な調和的な学風[2]であり研究は多くの人々に賛成せられ、高く評価され賞讃された[1][3]。
1939年九州大学理学部創立と共に設置された地質学科に、岩石学担当教授として赴任。今野円蔵、松下久道、松本達郎らとともに、教室建設に尽力した。九大では当時まだ研究が進んでいなかった、北部九州ー西中国地方の古生代・中生代変成岩類・深成岩類の研究を行った。戦時下での教室建設という困難による過労のためか、1943年頃、肺結核を発症し、1948年に没した。九州大学時代の門弟に村上允英、唐木田芳文、黒田吉益、山口勝らがいる。
杉と共に九大地質教室の建設に尽力した松本達郎は、杉没後の1950年に故杉健一らと共著で、松本達郎・(故)杉健一・唐木田芳文・種子田定勝・村上允英・冨田達(1950)「 北九州の変成岩類・深成岩類についての地史学的概察」という学会発表を行った。
1951年刊行された九州大学理学部研究報告(地質)第3巻第2号は「故杉健一教授記念号」である。同書には杉の業績目録と共に遺稿3編が収録されている。また、同書掲載の松本達郎(1951)「北九州・西中国の基盤地質構造概説」の深成岩・変成岩の部分には、九大における杉の研究内容が含まれている。
杉の没後、杉の蔵書は遺族によって九州大学に寄贈され、杉文庫と呼ばれている。九大地質学科は創立直後に戦局が悪化し海外図書の調達が途絶えたことや、戦後は経済的窮乏のため、教育研究に必要な図書の整備に苦心した。そのような状況下にあって「杉文庫」は学生達の教育研究を支えた。
1960~70年代、都城秋穂と杉門弟の黒田吉益を中心とする阿武隈研究グループが対峙した阿武隈高原に分布する変成岩類の成因論争(いわゆる阿武隈問題)は「杉健一の生涯と業績」などにおける都城の杉の研究業績に対する礼節を欠いた記述が原因の一つとなっている。阿武隈問題は杉の名誉回復運動の側面があった。
死後の1976年には、愛弟子の村上允英が杉と久綱政典が1942年〜1944年に瀬戸内海の岩城島より発掘した未解決鉱物(ユーディアル石様鉱物)[2]の分析に成功し、恩師の名前に因み杉石[4]と命名[2]する[3]。
国際的[5]に貴石・宝石して普及にいたる杉石・スギライトは、杉が1944年「愛媛県岩城島産エヂリン閃長岩について」(論文)を岩石鉱物人床学会誌に発表を期として、30年に亘る献身なる信念分析[2]のもとに1976年の杉石命名を実現、それが現在の偉大なる結果[6]をもたらした賜物のであり、日本人名の付いた唯一の宝石発見[7]である。
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