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本谷 祐一(もとたに ゆういち、1954年4月25日 - )は、広島県呉市(旧・豊田郡豊浜町斎島[1])出身の実業家。
安芸高田市の高宮カントリークラブ[2] や後述のサンフレッチェ広島やザスパ草津で経営再建を進めた[3]、「立て直し屋」[4] との異名もある。久保允誉エディオン社長の側近中の側近[4]。
瀬戸内海の斎灘に浮かぶ小さな有人島である斎島出身[5]。当時島内にあった豊浜町立斎島小学校で学び、中学から親元を離れ隣島の豊島で生活し豊浜町立豊浜中学校(現呉市立豊浜中学校)へ進学、高校は更に大崎上島へ移り住み広島県立大崎高等学校(現広島県立大崎海星高等学校)へ通った[5][6]。桃山学院大学卒業[7]。
1978年家電量販のダイイチ(のちのデオデオ、現エディオン)に入社、まずダイイチ本店(現エディオン広島本店)の冷蔵庫売り場担当についた[5]。入社9年目である1986年に店長(店舗名不明)を任された[5]。1996年店舗開発部長、その後はデオデオおよびエディオン取締役として活躍。
1998年に経営危機に陥ったサンフレッチェ広島の社長に久保が就任した際、当時デオデオ陸上部およびアーチェリー部のゼネラルマネージャー(GM)業務をしていた本谷[5] に白羽の矢が立ち、サンフレッチェ広島事業本部長に就任し経営改革に尽力した。2000年度には球団を六期ぶりの黒字に導いた[4]。1999年に開催された第1回JリーグGM講座を久米一正・小長谷喜久男・坂田信久らとともに修了[8]。
その後はデオデオに戻り取締役として活躍。2005年、補助金の目的外使用や観客数の虚偽報告などの不祥事が発覚して経営危機に陥っていたザスパ草津の事業統括本部長に就任、その後専務として活躍、クラブの再生に取り組んだ[9]。2006年、大西忠生が急逝した際には一時代表者となっていた[10]。
2007年12月、広島のJ2降格の責任を取り久保が社長を退任、後任としてサンフレッチェ広島社長に就任。 ちなみにデオデオおよび東京エディオン取締役、Jリーグ・準加盟クラブアドバイザー、ザスパ草津非常勤取締役専務などすべての役職を辞任し、広島の専従取締役となっている[3]。在任中辣腕を振るい、1年でのJ1復帰、J1復帰後はAFCチャンピオンズリーグ出場を果たし、5年目の2012年のJリーグではリーグ優勝を果たした[11]。一方で同年に累積赤字解消のため資本金20億円もの資本減少を行い経営安定に務めた。この減資の責任を取る形で2012年末をもって広島社長を退任した[11]。
その後はエディオンにも帰らず、フリーで講演会の講師などとして活躍している。
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