本城 太華(ほんじょう たいか)は、江戸時代後期の徳山藩士、儒学者。諱は訥。徳山藩の藩校・鳴鳳館で初代教授を務めた本城紫巌の長男で、太華も鳴鳳館の第4代教授を務める。家格は馬廻、禄高は50石。
生涯
安永4年(1775年)4月23日、徳山藩士・本城紫巌の長男として生まれる。太華の生まれた本城家は本城常光の流れをくむ。
寛政12年(1800年)、肥後国に遊学して熊本藩の高本紫溟の門下に入る。翌享和元年(1801年)には福岡藩の亀井南冥に師事し、享和2年(1802年)に徳山へ帰った。
享和3年(1803年)10月4日に父・紫巌が死去すると家督を相続し、徳山藩の藩校・鳴鳳館の句読師兼助訓導役に就任した。
文化3年(1806年)に江戸に勤め、文化4年(1807年)5月に帰国し、7月1日に訓導役に就任。文政3年(1820年)には助教に進んだ。
天保3年(1832年)に世子・毛利広篤(後の元蕃)の侍読となって元蕃の信頼を得、天保8年(1837年)に元蕃が藩主となって以後は大いに優遇された。また、天保5年(1834年)には死去した長沼采石の後任として、鳴鳳館の第4代教授役座取計に就任し、天保14年(1843年)12月まで務めた。太華は天性闊達・至誠にして、その学問は経詩に渡り、最も詩に長じた。また、40年間に渡って藩校に勤めて教学の刷新に力を注ぎ、後進の育成に努めて門下生から敬愛された。
弘化元年(1844年)10月29日、遺稿十数種を遺して死去。享年70。長男の暢は文政2年(1819年)に6歳で、次男の祐吉は天保7年(1836年)に19歳で死去していたため、姉のシゲと徳山藩士・江村正韶の次男である清が家督を相続した。
参考文献
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