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中華人民共和国の遼寧省の地級市 ウィキペディアから
朝陽市(ちょうよう-し)は、中華人民共和国遼寧省に位置する地級市、「龍城」とも呼ばれている。同省の西部に位置し、南は河北省、北は内モンゴル自治区赤峰市と接している。北京・天津・唐山、遼寧省中南部の都市集積の真ん中に位置し、中国北部の主要なゲートウェイとなっている。市の面積は約2万平方キロメートルで、遼寧省で第1位、同省の総面積の約7分の1を占めている。
朝陽市は遼寧省西北部の大凌河流域に位置し、北から西にかけては内モンゴル自治区、西は河北省、南は錦州市、東は阜新市と接する。
朝陽の長い歴史は、10万年以上前の旧石器時代にまで遡る。凌源の西八間房遺跡は、中国東北部で発見された最も古い古代人の居住地である。今から4万~5万年前、朝陽には現代人と同様の制度的特徴を持つ原始的な「新人」、すなわち「建平人」が現れた。朝陽では紅山文化の大規模な祭壇・寺院・墳墓が発見され、中国人の祖先が5,000年以上前に古代文明に入ったことが証明され、朝陽地域は中国文明発祥の地の一つとなっている。
戦国時代、朝陽の地は燕の管轄下にあり、海辺の5つの郡を設置し、柳城は遼西郡に属していた。漢の時代、柳城は遼西の西部都尉の所在地となり、後に陽楽・令支・肥如の3県が統治の中心となった。東晋の咸康7年(341年)、かつての燕王慕容皝は、柳城の北・龍山の西に城を築き、柳城を龍城に変え、そこに都を移した[1]。前燕・後燕・北燕が成立した五胡十六国時代の88年間のうち、龍城は52年間、三燕の首都であった。
太延2年(436年)、北魏は北燕を滅ぼした。太平真君5年(444年)に龍城を郡治とする昌黎郡は営州に転属した。隋や唐の時代には、龍城は柳城に改称され、営州の総督府が置かれた。営州は、「隋・唐の中央政府と東北の各民族との交流の拠点」として知られ、「営州古道」が整備された。隋や唐の時代、朝陽は多民族の交流が盛んな時代で、この時代に朝陽に住んでいた民族には、契丹・鉄勒・室韋・奚などがいた。
近年朝陽市北票市で発掘された喇嘛洞IIM101号墓から出土した龍文透彫鞍は大阪府羽曳野市誉田丸山古墳(応神陵陪塚)出土の2号鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一で、丸山2号鞍は北燕の製品である可能性が高いことが判明した(リンク「さわらび通信」参照)。
2市轄区・2県級市・2県・1自治県を管轄する。
現代の朝陽市は小麦・トウモロコシ・ビート・豆・ジャガイモなど農畜産業を基幹産業とする一方、製鉄所、ディーゼルエンジン工場、タイヤ製造工場など新興工業都市としても大発展を遂げている。また空路、鉄路、道路など交通の便がよく、観光客も多い。
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