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明楽 茂正(あけら もせい[2])は、江戸時代後期の旗本。別名・重之丞。御庭番明楽家分家の3代目。父は勘定奉行を務めた明楽茂村で、同僚の御庭番・川村修就は義理の兄弟にあたる。
両番格御庭番[3]として遠国御用[4]を務める。一度目は同じく両番格御庭番の村垣専次郎と共に文政元年(1818年)正月に上方筋へ、同年5月に浦賀表へ出向く。文政9年(1826年)の6月には小十人格御庭番[3]の川村庄五郎とともに上方筋へ派遣され、三度目の遠国御用を務めたという記録が残されている[5]。
文政10年(1827年)12月27日、西丸膳奉行に就任[6]。天保8年(1837年)4月2日に本丸膳奉行に、翌9年(1838年)11月25日に広敷用人となる[6]。天保10年(1840年)12月18日、広敷用人在職中に諸大夫に叙任し、大隅守を名乗る[7][8]。天保12年(1841年)4月に明楽家(800石)の家督を継ぐ[7]。同年5月20日に西丸広敷用人を務め、翌13年(1842年)8月24日に禁裏附に就任[6]。嘉永2年(1849年)正月20日、京都東町奉行となり[6][9]、嘉永3年(1850年)8月24日に小普請奉行[6]、翌4年(1851年)12月20日に普請奉行に就任する[6]。嘉永6年(1853年)6月13日に死去[6]。
御庭番・川村修富(川村修就の父)の日記によると、文化4年(1807年)2月19日、修富の次女・唯(当時17歳)との縁談が整う。同年4月21日、唯が輿入れしてくる[1]。
文化6年(1809年)6月3日、妻・唯が長女を出産。修富の名にちなんで富と名付ける[10]。
文化14年(1817年)7月29日、次女・せきが誕生[11]。
文政2年(1819年)11月20日、三女・わくり誕生[12]。
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