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モンゴル出身の元大相撲力士 ウィキペディアから
旭天鵬 勝(きょくてんほう まさる、1974年9月13日 - )は、モンゴル国ウランバートル市ナラフ区ナライハ町出身で友綱部屋(入門時は大島部屋)に所属した元大相撲力士。本名は太田 勝(おおた まさる)、モンゴル名(帰化前)は ニャムジャブ・ツェベクニャム(モンゴル語キリル文字表記:Нямжавын Цэвэгням、ラテン文字転写:Nyamjavyn Tsevegnyam)。現在は年寄・11代友綱を経て6代大島として大島部屋(友綱部屋から名称変更)の師匠として後進の指導に当たっている[1]。
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幕内最高優勝を果たし表彰式に臨む旭天鵬(2012年5月20日) | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 旭天鵬 勝 | |||
本名 | 太田 勝 | |||
愛称 | テンホー、角界のレジェンド、ひとみさん | |||
生年月日 | 1974年9月13日(50歳) | |||
出身 | モンゴル・ウランバートル市ナラフ区ナライハ町 | |||
身長 | 190.0cm | |||
体重 | 161.0kg | |||
BMI | 44.60 | |||
所属部屋 | 大島部屋→友綱部屋 | |||
得意技 | 右四つ、寄り | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西関脇 | |||
生涯戦歴 | 927勝944敗22休(140場所) | |||
幕内戦歴 | 697勝773敗15休(99場所) | |||
優勝 | 幕内最高優勝1回 | |||
賞 | 敢闘賞7回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1992年3月場所[1] | |||
入幕 | 1998年1月場所[1] | |||
引退 | 2015年7月場所[1] | |||
引退後 | 年寄・大島→同・友綱→同・大島 | |||
趣味 | 映画鑑賞 | |||
備考 | ||||
金星2個(貴乃花1個、朝青龍1個) | ||||
2015年7月27日現在 |
愛称は「テンホー」(四股名に由来)。37歳で史上最年長初優勝を果たし、40歳になって以降も幕内力士として活躍した[1]ことから、マスコミでは「角界のレジェンド」とも形容されていた。現役時代の体格は身長190.0cm・体重161.0kg。長身による懐の深さを生かした取り口で知られた。得意手は右四つ、寄り。最高位は西関脇(2003年7月場所・11月場所、2004年5月場所)。
もともと相撲や柔道の経験はほとんどなく、中学時代はバスケットボールをしていた。1992年2月に旭鷲山や旭天山らと共に来日して大島部屋に入門し、大相撲史上初のモンゴル出身力士の1人として同年3月場所において初土俵を踏む。四股名『旭天鵬』のうち『鵬』の字は、横綱の大鵬にちなむ[2]。
来日して半年後に、稽古の厳しさや日本の食文化などに馴染めず、共に来日した5人と部屋を脱走してモンゴル大使館に駆け込むが、モンゴルの実家まで来た師匠・2代大島(元大関・旭國)に「3年間は相撲を取るという約束がある」[3]「今に相撲はモンゴルの時代になる」と説得されて部屋へ戻った[4]。とはいえ脱走から戻ってきた力士への部屋の衆からの目は厳しく、実際脱走直後の1993年1月場所はその雰囲気に耐えられなかったため、大使館から場所入りするという特別待遇を認めてもらうことでやり過ごした[3]。
来日後の3か月間は通訳が付いたものの、部屋のルールでモンゴル語を一言しゃべるごとに罰金3000円、カラオケで覚える[5]、などの工夫によりほとんど辞書を使わずに流暢な日本語を修得した。後にはその経験を買われて、2000年5月30日に「学習ストラテジー概論:効果的な言語習得のために」というテーマで、早稲田大学日本語研究教育センター教授の宮崎里司と対話形式で授業を行ったことがある。その内容は『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか』(日本語学研究所、2001年、ISBN 4625683181)という宮崎里司の著書でも紹介されている。
故郷のモンゴルでは米は必ず手を加えて何かと混ぜて食べるものであったため、最初に白米を出された時は吐き気がした[6]。
1994年3月場所に幕下へ昇進し、1996年1月場所には西幕下9枚目の位置で7戦全勝という成績を挙げて優勝決定戦まで進出した。優勝決定戦ではこの場所において幕下付出で初土俵を踏んだ熊谷に敗れたものの、「幕下15枚目以内で7戦全勝すれば無条件に十両昇進する」という内規により、翌3月場所において新十両へ昇進した。その後、途中で幕下へ陥落することもあったものの、約2年間にわたって十両に在位し、1998年1月場所において新入幕を果たした。
その後、十両へ2回陥落したものの、1999年5月場所に3回目の入幕を果たしてからは幕内に定着し、2000年1月場所では11勝4敗と幕内では自身初となる二桁勝利を挙げて初の敢闘賞を受賞した。2002年1月場所では新三役となる東小結へ昇進した。2002年9月場所では横綱・貴乃花を破って初の金星を挙げた。2003年3月場所には横綱・朝青龍を掛け投げで破り2個目の金星を挙げ、東前頭筆頭の位置で9勝6敗と勝ち越して2回目の敢闘賞を受賞した。西小結へ昇進した翌5月場所でも10勝5敗と三役としては自身初となる勝ち越しを決めて3回目の敢闘賞を受賞した。自己最高位となる西関脇へと昇進した翌7月場所では6勝9敗と負け越したものの、翌9月場所では東前頭2枚目の位置で10勝5敗の好成績を挙げて4回目の敢闘賞を受賞した[4]。
2004年1月に日本国籍の取得を申請し、2005年5月12日にモンゴル国籍を離脱、同年6月22日に旭天山と共に日本国籍を取得して、モンゴル出身力士としては初となる日本への帰化を果たした。2004年5月場所、朝青龍につり出しで勝利したが三役に復帰していたため金星にならなかった。2006年1月にはモンゴル政府より、オリンピックのメダリストなどに贈られるスポーツ功労賞を受賞している。大相撲力士では、旭鷲山・朝青龍に続いて3人目の受賞者となった。同年5月23日には婚約を発表した。
2006年7月場所には、当時の現役力士では土佐ノ海と並び史上1位となる幕内連続出場660回を記録した。その後も幕内連続出場は続いたものの、2007年5月場所前に人身事故を起こし出場停止処分を受けてこの場所を全休(関取となってから初の休場)し、現役力士では単独1位となっていた幕内連続出場記録は720回で途切れた。8年ぶりに十両へ陥落した翌7月場所では12勝3敗と大きく勝ち越して優勝決定戦まで進出し、優勝決定戦では巴戦で岩木山に敗れたものの、翌9月場所に1場所で幕内へ復帰した。その9月場所では千秋楽まで白鵬と優勝を争い、最終的には12勝3敗という好成績を挙げて5回目の敢闘賞を受賞した[4]。2007年11月場所で旭天山が引退して以降は、旭鷲山らと共に来日した初のモンゴル出身力士6人の中で現役最後の力士となった。
2009年1月場所では西前頭筆頭の位置で9勝6敗と勝ち越し、翌3月場所において17場所ぶりに小結に復帰した。34歳5か月での三役昇進は戦後では大関経験者を除いて史上9位の年長記録となった。同年7月場所にも小結に昇進し、34歳9か月16日での三役昇進は戦後では大関経験者を除いて史上6位の年長記録、通算10回目の三役昇進は史上8位タイの記録となった。2009年7月場所は東小結の地位を与えられたが、この時34歳9か月であり、この時点で外国出身力士の高齢三役昇進記録第2位の記録を達成[7]。
2012年4月に師匠の2代大島が定年退職を迎えて大島部屋が閉鎖されたため、他の所属力士と共に友綱部屋へと移籍した[8]。友綱部屋へ移籍後初の場所となった同年5月場所では、西前頭7枚目の位置で5日目までは黒星と白星が交互に続く2勝3敗の成績だったものの、そこから一転して快調に白星を重ねていき、14日目には大関・琴欧洲を豪快な上手投げで破り、千秋楽には関脇・豪栄道にも勝利して10連勝し、12勝3敗の成績で優勝決定戦まで進出した。優勝決定戦では、千秋楽では対戦相手の琴欧洲が前日の旭天鵬戦で右足根骨靱帯を損傷し休場したために不戦勝となった栃煌山と現行制度では初となる平幕力士同士での対戦となり、その優勝決定戦で栃煌山を叩き込みで破り、自身初となる幕内最高優勝を果たし[1]、同時に6回目の敢闘賞も受賞[4][9]。優勝パレードでは後輩でもある横綱・白鵬が自ら旗手を買って出た。
次の通り、大ベテラン力士による記録ずくめの平幕優勝ということもあり、マスコミでは大きな話題になった。
平幕優勝に続く2012年7月場所では、東前頭筆頭の位置で初日から8連敗と早々に負け越しが決まり、以降も精彩を欠いて初日から13連敗を喫してしまい[11]、14日目と千秋楽には勝利して15戦全敗は免れたものの、結果的には2勝13敗という大敗に終わった。1場所15日制が定着した1949年以降で、前場所の優勝力士が翌場所において初日から8連敗で負け越すのは史上初のこととなり、また前場所の優勝力士が翌場所に皆勤して13敗を喫したのは1968年5月場所における若浪および2000年5月場所における貴闘力と並ぶ史上1位のワースト記録となった。
東前頭11枚目の位置まで番付を下げた翌9月場所では、幕内では自身初となる初日からの8連勝で中日に勝ち越しを決めた。38歳0か月3日での幕内中日勝ち越しは、1952年1月場所における羽黒山の37歳2か月を60年ぶりに更新する史上最年長記録となった[12][13]。9日目には栃煌山を破り通算813勝目を挙げて、高見山が持つ外国出身力士の最多通算勝利記録を28年ぶりに更新した。その後は優勝争いからは脱落し、勝てば敢闘賞受賞が決まっていた千秋楽の豪栄道戦にも敗れてしまい三賞受賞も逃したものの、10勝5敗という好成績を挙げた。翌11月場所でも10勝5敗の成績を挙げて自身初となる2場所連続しての2桁勝利を記録した。
2013年3月場所では9日目に通算出場1655回を記録して、高見山が持つ外国出身力士の最多通算出場記録を29年ぶりに更新した。同年9月13日には39歳の誕生日を迎えて、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては、1984年3月場所において39歳8か月で十両へ陥落するまで幕内に在位した高見山に次いで2人目となる39歳の幕内力士となり[14]、直後に行われた同年9月場所では13日目に勝ち越しを決めて、年6場所制となった1958年以降では1983年11月場所において39歳5か月で勝ち越しを果たした高見山に次いで2人目となる39歳での幕内勝ち越しを記録した[15][注釈 1]。因みにこの年の夏、それまで平気で食べられた牛丼の特盛を完食すると翌朝に胃もたれし、これが約2年後の引退の予兆となった[16]。
2014年1月場所では10日目に白鵬と結びの一番で対戦し、昭和以降では1983年7月場所での千代の富士戦における高見山の39歳0か月を抜いて史上最年長となる39歳4か月での結びの一番への出場を記録した[17]。11日目には魁皇を抜いて史上3位となる通算出場1732回を記録した。翌3月場所では12日目に勝ち越しを決めて、年6場所制となった1958年以降では高見山を抜いて史上最年長記録となる39歳6か月での幕内勝ち越しを記録すると同時に、39歳を迎えて以降に複数回の幕内勝ち越しを記録した史上初の力士となった。
翌5月場所では初日の時点で39歳7か月28日となり、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては、1984年1月場所千秋楽における高見山の39歳7か月6日の記録を30年ぶりに更新しての史上最年長幕内力士となった[18]。6日目には新横綱の鶴竜と、7日目には白鵬とそれぞれ結びの一番で対戦し、自身が持つ結びの一番の史上最年長出場記録を39歳8か月に更新した。10日目には同場所における初白星を挙げて、1984年1月場所初日に幕内にて高見山が39歳206日で挙げた白星の記録を抜いて、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては最年長記録となる39歳249日での幕内勝利を記録した[19]。翌7月場所では14日目に寺尾を抜いて史上3位となる幕内通算出場1379回を記録した。
2014年9月13日には40歳の誕生日を迎えて、昭和以降では1954年9月場所における名寄岩以来となる5人目、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては史上初となる40歳の幕内力士となり[20]、その翌日から開始された同年9月場所では、初日に隠岐の海を上手投げで破り、1954年9月場所千秋楽において名寄岩が増巳山に勝利して以来60年ぶりとなる40歳での幕内勝利を記録した。13日目には栃乃若を破って勝ち越しを決めて、昭和以降では1935年5月場所における能代潟と1941年5月場所における藤ノ里に続いて3人目、戦後および年6場所制となった1958年以降では史上初となる40歳代での幕内勝ち越しを記録した[21]。千秋楽には寺尾を抜いて史上2位となる通算出場1796回を記録した。
翌11月場所では4日目に大潮に次いで史上2人目となる通算出場1800回を記録し、5日目には高見山・魁皇に続いて3人目となる幕内通算出場1400回を記録した。6日目には千代大龍を寄り切りで破り、魁皇・千代の富士・大潮・北の湖に続いて史上5人目となる通算900勝を達成した[22]。9日目には豊ノ島を破って勝ち越しを決めて、昭和以降では1935年5月場所における能代潟の40歳1か月15日を抜いて史上最年長記録となる40歳2か月4日での幕内勝ち越しを記録すると同時に[23]、40歳代を迎えて以降に複数回の幕内勝ち越しを記録した史上初の力士となった。その後は優勝争いからは脱落したものの、勝てば敢闘賞受賞が決まっていた千秋楽の千代丸戦には勝利して、最終的には10勝5敗の好成績を挙げて7回目の敢闘賞を受賞し、1958年11月場所において38歳9か月で技能賞を受賞した若瀬川の史上最年長三賞受賞記録を56年ぶりに更新すると同時に、昭和以降では史上初となる40歳代での三賞受賞[24] ならびに幕内での2桁勝利を記録した。
2015年3月場所では6日目に高見山を抜いて史上2位となる幕内通算出場1431回を記録した。翌5月場所では5日目に魁皇を抜いて史上1位となる幕内通算出場1445回を記録し、14日目には佐田の富士を破って勝ち越しを決めて、自身が持つ昭和以降における幕内勝ち越しの史上最年長記録を40歳8か月10日に更新した。
西前頭11枚目の位置で迎えた同年7月場所では、9日目に豊ノ島に敗れて寺尾を抜いて史上1位となる通算939敗目を記録した。11日目には貴ノ岩に敗れて負け越しが決まり、以降も精彩を欠いて全く白星を挙げることができず、最終的に3勝12敗と大敗して、翌9月場所における十両陥落が決定的となった。本人は十両へ陥落した場合は十両では相撲を取らずに引退することを公言していた[注釈 2] ため、千秋楽の翌日となる同年7月27日に現役引退を発表し、年寄・4代大島を襲名して友綱部屋の部屋付き親方に就任した[25]。引退会見では「白星黒星で左右される勝負の世界。年齢がいくと気持ちのダメージが大きい。自分の力が無くなったんじゃないかと。気持ちの糸が切れた感じ」とコメントし、「十両で、もう一回(関取の)スタートラインにいく自信はない」ともこぼした。思い出の一番として2012年5月場所の優勝決定戦を挙げており「土俵の上で泣いたのは初めて。あの優勝で、いろんな人に知ってもらったし、僕も成長できた」と振り返った。親方としての目標を「たくさんの拍手、声援をもらい、みんなに愛される力士を育てたい」と語り、将来は部屋持ち親方として“旭天鵬2世”を送り出す夢を明らかにした[26]。同年7月29日にはウランバートル市内で夫人と9年越しに結婚式を挙行した[27]。
現役引退から10か月を経た2016年5月29日に、両国国技館で断髪式が開かれた。元小結・旭鷲山や元横綱・朝青龍などが駆け付け、先代大島や伊勢ヶ濱(元横綱・旭富士)、横綱・白鵬など、関取衆ら約400人がはさみを入れ、最後は先代大島の見守る前で、友綱親方が止めばさみを入れた。涙ながらに断髪を終えた大島親方は「これで本当に、お相撲さんとして卒業だな」としみじみ話した。モンゴル勢の隆盛の礎を築いたことには「結果的に、我々が行ったから(日本に)来やすくなったのは事実。頑張りは本人たち。そこにたまたま、自分が最初にいた。ついてる男だなと思う」と述べた。現役時の一番の思い出には、37歳8カ月で史上最年長での初優勝を果たした2012年5月場所を挙げ「やっぱり優勝がなかったら、レジェンドとか呼ばれることもなかったと思う」と振り返った[28]。
2017年6月12日に10代友綱が定年を迎えることから、同年5月場所終了後に年寄名跡を交換し11代友綱を襲名、友綱部屋もそのまま継承することが決定[1]。外国出身力士では4人目、モンゴル出身力士では初の師匠となる[29]。そして6月11日を以て10代友綱との名跡交換を行い、11代友綱として部屋の師匠に就き、同日には東京都墨田区内のホテルで襲名披露パーティーも行った[30]。13日、師匠が代替わりして初の稽古を部屋で行った。午前7時半から約2時間半、先代師匠の大島も見守る中、魁聖らが稽古。新たな船出に勝手が違うのか、友綱は「いつも(上がり座敷の)端っこに座ってたから違和感があるね」と、何度も稽古場を歩きながら力士に声をかけた。一家で同居するのは8月からで「(師匠を)実感するのはそれから」。新弟子のしこ名に「鵬」の字を付けて、旭天鵬を名乗りたい力士には「こだわらない」と、寛容な姿勢も示した[31]。
2020年12月10日には同郷のモンゴル出身の横綱・鶴竜が帰化を果たしたことに対して「素直にうれしいし、良かった。国籍を変えることは複雑で難しいこともある。覚悟もいる。だけど頑張っていけばみんな理解してくれる。これで心もすっきりして相撲が取れると思う」とコメント[32]。
2022年2月1日付で5代大島(10代友綱)と名跡を再交換し6代大島となり、それに伴って友綱部屋から名称変更される形で大島部屋を再興した。
4月16日、協会は6代大島が新型コロナウイルスに感染したと発表した[33]。
右四つ得意とされ、実際に右四つに組むことが多いが、左四つでも遜色なく取れるいわゆる「なまくら四つ」である。右でも左でも胸を合わせたがっぷりの体勢になれば十分で、廻しを引き付けて吊り寄り気味に寄って出る。この型になれば横綱・大関とも互角以上に渡り合う地力があり、懐が深いために両上手のいわゆる外四つの状態でもある程度の相撲が取れ、逆転の叩きや引き落としも決まる。しかし、自身も腰が高いことが多いため、寄って出ながら土俵際で逆転を食らうことが多かった。立合いでは勢い良く足を出して差すか上手を狙うが当たりは強くなく脇が甘い。また突き押しが不得手であるため、立合いで優位に立てなければあまり攻め手はなかったようである。また、四つ相撲の取り手としては珍しくツラ相撲の傾向があった。
怪我に強く、上記の謹慎による休場を除けば休場は序二段時代の脱走による全休一度だけで、幕内で休場したことは一回もなく、40歳に達しても若々しい体の張りを保ち続けて、大相撲中継でアナウンサーや解説者にしきりに「体が若い」などと感嘆されていた。北の富士勝昭は、本人が幕内最高優勝を果たした2012年5月場所千秋楽(2012年5月20日)のNHK総合・大相撲中継における解説にて「この人はあと5年は(相撲を)取れるね」と評した。筋力は年齢を重ねても衰えず、2015年1月10日に放送されたTBS『ジョブチューンSP』にゲストとして出演した際には、白鵬など他のゲストの力士らと背筋力測定のコーナーに挑戦して、そこで296.5kgを記録して優勝し、出演者の堀内健から「40歳ですよね」とその怪力ぶりを驚嘆された[34]。
横綱戦成績:6勝65敗(曙:0勝1敗、貴乃花:2勝2敗・うち不戦勝1、若乃花:1勝0敗・うち不戦勝1、武蔵丸:1勝10敗。朝青龍:2勝28敗、白鵬:0勝19敗、日馬富士:0勝4敗、鶴竜:0勝1敗[51])
大関戦成績:42勝149敗(貴ノ浪:0勝1敗、千代大海:7勝27敗、出島:1勝3敗、武双山:11勝9敗、雅山:0勝2敗、魁皇:5勝33敗・うち不戦勝1、栃東:9勝11敗、朝青龍:0勝3敗、白鵬:0勝3敗、琴欧洲:4勝19敗、琴光喜:3勝7敗、日馬富士:2勝10敗、把瑠都:0勝6敗、琴奨菊:0勝7敗、稀勢の里:0勝4敗、鶴竜:0勝4敗)
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1992年 (平成4年) |
x | (前相撲) | 東序ノ口47枚目 6–1 |
西序二段98枚目 4–3 |
東序二段72枚目 休場 0–0–7 |
西序二段142枚目 5–2 |
1993年 (平成5年) |
西序二段86枚目 5–2 |
西序二段44枚目 5–2 |
西序二段8枚目 5–2 |
東三段目71枚目 4–3 |
東三段目51枚目 6–1 |
東三段目5枚目 3–4 |
1994年 (平成6年) |
西三段目19枚目 5–2 |
西幕下53枚目 4–3 |
東幕下44枚目 2–5 |
東三段目9枚目 5–2 |
東幕下45枚目 6–1 |
東幕下21枚目 4–3 |
1995年 (平成7年) |
西幕下16枚目 3–4 |
東幕下24枚目 3–4 |
東幕下33枚目 4–3 |
東幕下27枚目 4–3 |
東幕下19枚目 4–3 |
東幕下13枚目 4–3 |
1996年 (平成8年) |
西幕下9枚目 7–0 |
東十両13枚目 9–6 |
西十両7枚目 6–9 |
東十両12枚目 8–7 |
西十両8枚目 5–10 |
東幕下筆頭 4–3 |
1997年 (平成9年) |
西十両11枚目 7–8 |
西十両12枚目 8–7 |
東十両9枚目 9–6 |
東十両4枚目 8–7 |
東十両2枚目 8–7 |
西十両筆頭 9–6 |
1998年 (平成10年) |
西前頭15枚目 9–6 |
東前頭12枚目 6–9 |
東十両筆頭 8–7 |
西前頭15枚目 4–11 |
東十両5枚目 8–7 |
西十両2枚目 6–9 |
1999年 (平成11年) |
東十両6枚目 9–6 |
東十両筆頭 8–7 |
東前頭14枚目 9–6 |
西前頭10枚目 7–8 |
東前頭12枚目 8–7 |
東前頭8枚目 6–9 |
2000年 (平成12年) |
東前頭13枚目 11–4 敢 |
西前頭2枚目 4–11 |
東前頭6枚目 7–8 |
西前頭7枚目 9–6 |
東前頭3枚目 4–11 |
西前頭6枚目 7–8 |
2001年 (平成13年) |
東前頭8枚目 10–5 |
東前頭筆頭 3–12 |
西前頭7枚目 6–9 |
東前頭11枚目 8–7 |
東前頭8枚目 9–6 |
西前頭5枚目 8–7 |
2002年 (平成14年) |
西小結 6–9 |
東前頭2枚目 6–9 |
西前頭4枚目 6–9 |
東前頭8枚目 8–7 |
東前頭3枚目 8–7 ★ |
東小結 7–8 |
2003年 (平成15年) |
東前頭2枚目 8–7 |
西前頭筆頭 9–6 敢★ |
西小結 10–5 敢 |
西関脇 6–9 |
東前頭2枚目 10–5 敢 |
西関脇 4–11 |
2004年 (平成16年) |
西前頭3枚目 8–7 |
西前頭2枚目 10–5 |
西関脇 6–9 |
東前頭筆頭 8–7 |
東小結 5–10 |
西前頭3枚目 5–10 |
2005年 (平成17年) |
東前頭6枚目 10–5 |
東前頭筆頭 6–9 |
西前頭3枚目 6–9 |
西前頭5枚目 8–7 |
西前頭3枚目 10–5 |
東小結 8–7 |
2006年 (平成18年) |
東小結 4–11 |
東前頭5枚目 11–4 |
東小結 5–10 |
西前頭2枚目 6–9 |
西前頭4枚目 6–9 |
東前頭6枚目 10–5 |
2007年 (平成19年) |
東前頭3枚目 8–7 |
東前頭2枚目 4–11 |
東前頭8枚目 出場停止 0–0–15 |
西十両3枚目 12–3 |
西前頭12枚目 12–3 敢 |
西前頭4枚目 4–11 |
2008年 (平成20年) |
西前頭10枚目 10–5 |
西前頭4枚目 9–6 |
東前頭2枚目 4–11 |
東前頭9枚目 10–5 |
東前頭3枚目 6–9 |
西前頭6枚目 10–5 |
2009年 (平成21年) |
西前頭筆頭 9–6 |
西小結 6–9 |
西前頭2枚目 8–7 |
東小結 6–9 |
西前頭2枚目 5–10 |
西前頭6枚目 8–7 |
2010年 (平成22年) |
西前頭5枚目 8–7 |
東前頭2枚目 3–12 |
西前頭7枚目 9–6 |
東前頭3枚目 7–8 |
西前頭3枚目 4–11 |
東前頭9枚目 9–6 |
2011年 (平成23年) |
東前頭6枚目 7–8 |
八百長問題 により中止 |
東前頭8枚目 8–7 |
東前頭2枚目 2–13 |
西前頭10枚目 11–4 |
西前頭2枚目 4–11 |
2012年 (平成24年) |
西前頭6枚目 9–6 |
東前頭3枚目 5–10 |
西前頭7枚目 12–3[注釈 5] 敢 |
東前頭筆頭 2–13 |
東前頭11枚目 10–5 |
東前頭6枚目 10–5 |
2013年 (平成25年) |
西前頭2枚目 4–11 |
西前頭8枚目 7–8 |
東前頭9枚目 9–6 |
東前頭4枚目 6–9 |
西前頭6枚目 8–7 |
東前頭2枚目 5–10 |
2014年 (平成26年) |
西前頭5枚目 6–9 |
西前頭8枚目 9–6 |
西前頭3枚目 3–12 |
東前頭12枚目 6–9 |
東前頭14枚目 8–7 |
西前頭11枚目 10–5 敢 |
2015年 (平成27年) |
東前頭7枚目 5–10 |
西前頭11枚目 6–9 |
西前頭14枚目 8–7 |
西前頭11枚目 引退 3–12–0 |
x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
碧山 | 2 | 4 | 蒼樹山 | 2 | 2 | 安芸乃島 | 9 | 3 | 安芸ノ州 | 0 | 1 |
曙 | 0 | 1 | 朝青龍 | 2 | 36 | 朝赤龍 | 12 | 8 | 朝乃翔 | 6 | 1 |
朝乃若 | 6 | 4 | 東龍 | 2 | 1 | 安美錦 | 10(1) | 18 | 阿夢露 | 1 | 1 |
荒鷲 | 1 | 2 | 阿覧 | 6 | 6 | 勢 | 3 | 5 | 市原 | 1 | 0 |
岩木山 | 13 | 3 | 潮丸 | 1 | 0 | 遠藤 | 1 | 4 | 皇司 | 1 | 4 |
大碇 | 1 | 1 | 大岩戸 | 1 | 0 | 大砂嵐 | 1 | 1 | 大日ノ出 | 3 | 2 |
小城錦 | 3 | 4 | 隠岐の海 | 8 | 6 | 魁皇 | 5(1) | 34 | 魁聖 | 1 | 1 |
海鵬 | 7 | 7 | 臥牙丸 | 8 | 6 | 鏡桜 | 2 | 0 | 垣添 | 12 | 7 |
鶴竜 | 3 | 15 | 春日王 | 3 | 4 | 春日錦 | 2 | 1 | 巌雄 | 3(1) | 2 |
稀勢の里 | 9 | 14 | 北勝鬨 | 1 | 2 | 北桜 | 2 | 0 | 北太樹 | 6 | 6 |
木村山 | 3 | 0 | 金開山 | 5 | 1 | 豪栄道 | 6 | 11 | 光龍 | 1 | 1 |
五城楼 | 1 | 1 | 黒海 | 5 | 9 | 琴稲妻 | 2 | 1 | 琴欧洲 | 5 | 22 |
琴春日 | 0 | 1 | 琴奨菊 | 10 | 14 | 琴ノ若 | 10 | 8 | 琴光喜 | 13 | 24 |
琴勇輝 | 0 | 6 | 琴龍 | 7 | 9 | 小錦 | 1 | 0 | 磋牙司 | 1 | 0 |
佐田の海 | 2 | 0 | 佐田の富士 | 9 | 2 | 里山 | 0 | 1 | 敷島 | 2 | 2 |
霜鳥 | 4 | 3 | 十文字 | 7 | 1 | 常幸龍 | 2 | 7 | 翔天狼 | 1 | 2 |
松鳳山 | 5 | 5 | 青狼 | 0 | 1 | 戦闘竜 | 0 | 1 | 蒼国来 | 1 | 4 |
大喜鵬 | 1 | 0 | 大善 | 4 | 3 | 大道 | 4 | 1 | 貴闘力 | 4 | 3 |
貴ノ岩 | 2 | 2 | 貴ノ浪 | 6 | 9 | 貴乃花 | 2(1) | 2 | 隆の山 | 3 | 0 |
隆乃若 | 5 | 6 | 高見盛 | 15 | 5 | 髙安 | 1 | 3 | 宝富士 | 6 | 1 |
豪風 | 12 | 12 | 玉春日 | 11 | 9 | 玉乃島 | 13 | 8 | 玉力道 | 0 | 1 |
玉鷲 | 8 | 7 | 千代鳳 | 2 | 3 | 千代大海 | 7 | 27 | 千代大龍 | 4 | 4 |
千代天山 | 6 | 6 | 千代の国 | 0 | 1 | 千代丸 | 4 | 4 | 出島 | 14 | 10 |
寺尾 | 2 | 3 | 出羽嵐 | 0 | 1 | 天鎧鵬 | 3 | 1 | 闘牙 | 4 | 8 |
時津海 | 5 | 8 | 時天空 | 8 | 13 | 德勝龍 | 4 | 1 | 德瀬川 | 1 | 3 |
土佐ノ海 | 9 | 5 | 土佐豊 | 4 | 1 | 栃東 | 10 | 15 | 栃煌山 | 14* | 9 |
栃栄 | 3 | 2 | 栃ノ心 | 5 | 9 | 栃乃洋 | 11 | 9 | 栃乃花 | 6 | 1 |
栃乃和歌 | 3 | 0 | 栃乃若 | 8(1) | 0 | 豊桜 | 3 | 0 | 豊ノ島 | 11 | 9 |
豊響 | 12 | 10 | 白馬 | 3 | 1 | 白鵬 | 2 | 28 | 白露山 | 4 | 0 |
濱ノ嶋 | 2 | 5 | 追風海 | 3 | 2 | 把瑠都 | 4 | 13 | 日馬富士 | 6 | 19 |
肥後ノ海 | 6 | 4 | 英乃海 | 1 | 0 | 富士東 | 5 | 1 | 武州山 | 3 | 0 |
普天王 | 7 | 1 | 武雄山 | 5 | 0 | 寶智山 | 1 | 0 | 豊真将 | 5 | 4 |
北勝力 | 15 | 3 | 誉富士 | 0 | 2 | 舞の海 | 1 | 1 | 将司 | 0 | 1 |
舛ノ山 | 6 | 0 | 水戸泉 | 0 | 2 | 湊富士 | 1 | 5 | 雅山 | 18 | 19 |
妙義龍 | 1 | 6 | 武蔵丸 | 1 | 10 | 武双山 | 12 | 11 | 猛虎浪 | 2 | 1 |
大和 | 1 | 0 | 燁司 | 3 | 1 | 芳東 | 1 | 0 | 嘉風 | 9 | 9 |
龍皇 | 1 | 0 | 露鵬 | 3 | 5 | 若麒麟 | 1 | 0 | 若光翔 | 2 | 0 |
若荒雄 | 2 | 2 | 若孜 | 2 | 0 | 若の里 | 15 | 24 | 若ノ城 | 2 | 1 |
若乃花 | 1(1) | 0 | 若ノ鵬 | 2 | 1 | 和歌乃山 | 10 | 1 |
※カッコ内は勝数・負数の中に占める不戦勝・不戦敗の数。
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