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日本の福音派(にほんのふくいんは)について記述する。キリスト教のプロテスタントにおいて日本の福音派とエキュメニカル派は、明白に分かれている[1][2]。両者は前提が異なるのであり、リベラルが人間理性を最終権威とするのに対し、聖書信仰の福音派は神の言葉である聖書を最終権威とする[3]。
福音派の聖書観は聖書信仰であり、これは「福音派全体の共通した恵みの絆」と呼ばれる。 「聖書信仰は、ただJPCだけではなく、福音派全体の共通した恵みの絆であり、伝統的キリスト教教理の敷石であり、救霊と伝道への情熱の源泉である[9]」
自由主義神学や新正統主義は「洗礼による新生」の理解をとるが、福音派は、その思想を異端として排除し、聖霊によって生まれ変わった者のみが洗礼(バプテスマ)を受け教会員となる資格を持つ[10][11]。
戦前からあった問題であるが、特に戦後の福音派は異教の玉串、焼香、神社参拝など異教の行為を偶像崇拝であるとして、禁じてきた[12][13][14][15][16][17][18][19]。日本キリスト改革派教会は1951年の第6回大会で「すべての神道神社は偶像であり、我々はそれを礼拝する事を拒絶する。神棚、仏壇その他どのような宗教的事物に対しても頭を下げて礼をしない」と決議した[20]。
聖書信仰の教会は1959年11月18日の日本宣教百年記念聖書信仰運動大会において、偶像崇拝の罪を、神の御前に悔い改め、告白した。「我らは過去百年間、キリスト者として、個人生活的にも、亦国民生活的にも、一切の偶像崇拝を廃棄すべき聖書の命令に応えることに於いて、 欠けたところの多かったことを神の前に反省し、痛切なる悔改めを告白する」
福音派は聖書信仰がイエス・キリストの聖書観であったと信じる[21][22]。日本にやってきた最初の宣教師たちは聖書信仰であった[23]。また、日本で最初のプロテスタント教会はローマ・カトリック、自由主義神学、ユニテリアンに対する福音主義同盟の9ヶ条を基準とした[24][25]。
1880年代、それまで保守的な信仰を持っていた日本の教会に、当時は新神学と言われた自由主義神学(リベラル)が入る。このチュービンゲン学派の新神学は日本の聖書信仰に破壊的な作用を及ぼした[26]。日本組合基督教会の小崎弘道が1889年に同志社で行ったYMCA夏季学校の「聖書のインスピレーション」[27]と題する講演で高等批評を擁護して、聖書信仰を否定したところから、日本のリベラルが始まるといわれる[28][29][30]。
柳田友信は日本のプロテスタントを以下の三つに区分する。 福音派はリベラルと準正統主義の2つとも非正統として退ける[31][32]。
中田重治牧師を初代監督とするホーリネスにリバイバルがおこり、教勢を伸ばしたが、その後に分裂事件が起こる。そのため戦前の聖書信仰運動である聖書信仰連盟(1933年)は続かなかった。
美濃ミッションは神社参拝を偶像崇拝として拒んだために、弾圧された。神社非宗教論を唱え神社参拝を行う立場の者は、神社参拝拒否をファンダメンタリスト、ファンダメンタリズムと呼んだ[35][36][37]。
皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の宣言により成立した日本基督教団は、創立総会で国民儀礼、宮城遥拝を行った。また日本基督教団トップである統理者富田満牧師は伊勢神宮に参拝して天照大神に教団の設立を報告し、その発展を希願した。このため教団の発展は伊勢神宮の祭神である天照大神に帰せられると言われる[38]。ホーリネス弾圧事件がおこると教団の指導者はこれを歓迎し、弾圧に加担した。また、軍用機「日本基督教団号」を献納し、日本基督教団自らが「現代の使徒書簡」と称する『日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰』を発表した[39][40]。
常葉隆興は日本基督教団の結成式で行われた宮城遥拝は、「偶像礼拝であり、神に対して死に値する罪であった。」と告白した[20]。
これは自由主義神学の高等批評によって信仰が骨抜きにされており、植村神学が簡易信条主義であったことから、異教の偶像崇拝に対して抵抗する力を持たなかったとされ[20]、また中央神学校のチャップマン教授は、戦前の日本の教会が旧約聖書の知識を欠いていた事を指摘する[41][42]。
戦後の日本基督教団はアメリカ合衆国やヨーロッパのエキュメニカル派に認められた。教団は戦時中の妥協にもかかわらず欧米に認められたことに満足したのだと指摘される[43]。日本基督教団は世界教会協議会(WCC)、エキュメニカル派に属しており、福音派と区別される[44]。
大戦後は特にリベラル派、エキュメニカル派と区別して、歴史的正統的キリスト教をあらわす語として福音派と呼ばれる[45]。
田中剛二牧師は 日本基督教団に加わった事そのものが神に対する背信行為であり、「教団脱退は私の悔改めである」と述べた[46]。
こうして、戦前の主流派であった日本基督教団に取り込まれた教会は日本基督教団から脱退する。敗戦の時点ではリベラル派26に対し、聖書信仰の福音派1という26対1の少数派であったと言われる[47]。
戦後の福音派は次のように大別される。
1959年の日本プロテスタント100周年記念行事は、リベラル派(エキュメニカル派)と聖書信仰(福音派)が別々に開催した[48]。1960年に日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)が結成され、 初代実行委員長に常葉隆興牧師が就任。機関紙『聖書信仰』創刊号は標語に「聖書は誤りなき神の言」(第二テモテ3章16節)を掲げ、常葉牧師は「ここに始めて真の意味の聖書信仰に立つ者の同盟が結成された」、「我らは日本の自由主義者に対し、また政治、権威、この世を掌る悪の霊に対して勇敢に戦いを宣し、同胞に対して真の聖書的福音を宣べ伝えねばなりません。」「聖書信仰に立つ全国同信の士よ、願くは来りて我らの戦いに参加せられんことを」と呼びかけている[49]。 これが新改訳聖書の発行と日本福音同盟の結成につながった[50]。
1968年4月、日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)、日本福音連盟(JEF)、日本福音主義宣教師団(JEMA)を三創立会員として、日本福音同盟(JEA)が結成された。
1970年代は日本基督教団らエキュメニカル派が社会派と教会派の対立によって混迷を深める一方、福音派は一致を深めた時期として記憶されている。「福音派は一致へ大きく踏み出し、エキュメニカル派は分裂の道を歩みだしたのであった。」[51]
1970年4月福音主義神学会が設立される。1972年-1977年『新聖書注解』が発行される。
1974年6月3日-7日まで第一回日本伝道会議が開催され、ジョン・ストットがメインの講師を務めた。また7月16日-26日にローザンヌ世界伝道国際会議が開催され、日本の福音派から53名が出席した。日本伝道会議では京都宣言を宣言し、ローザンヌではローザンヌ誓約を結んだ。
1982年6月7日-10日第二回日本伝道会議が開催される。尾山令仁牧師を起草委員長とする起草委員会の作成による二回目の京都宣言を発表。聖書信仰、十字架の福音を確認し、使徒パウロのガラテヤ1:6-9から「この福音と違ったものを宣べ伝える者はのろわれよ」と宣言。異教、異端、混合宗教(シンクレティズム)、新普遍救済主義を退けた[52]。
日本ナザレン教団の指導者が翻訳した『ファンダメンタリズム』が「偏見に満ちた福音派攻撃の本」[53]として問題になっていたが、日本プロテスタント聖書信仰同盟が発表したこの宣言により、全的無誤性が福音派の合意として確認された[54][55]。
1999年の10月末に京都の国立京都国際会館で「世界宣教会議」が開催された、奥山実牧師が委員長を務めた。この「世界宣教会議」は、『キリスト教年鑑』2001年版によって「日本キリスト教史上最大規模の 『世界宣教会議』」と呼ばれた。[56]
2010年5月11日-14日世界宣教東京大会が開催される。クリスチャンの一致のためとしてマーティン・ロイドジョンズの『栄えに満ちた喜び』が紹介された。閉会式では尾山令仁牧師が同じ聖書信仰に立ちながら溝のある福音派と聖霊派の一致について語った。また尾山牧師は日本がアジアに対して犯した罪を謝罪し、さらに、キリスト教会がユダヤ人を迫害してきた罪を謝罪しなければならないと語った。これに対してアメリカの教会の代表は日本に原爆を投下した罪を謝罪した。
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