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長野県佐久市田口宮代にある神社 ウィキペディアから
新海三社神社(しんかいさんしゃじんじゃ、単に「新海神社」とも)は、長野県佐久市田口宮代に鎮座する神社。旧県社で佐久郡の総社。御神紋は梶葉。
主祭神の興波岐命(おきはぎのみこと)は出雲の大国主大神の孫神で、佐久の開拓神である。興波岐命の父神は諏訪の建御名方命で、母神は上野貫前女神(荒船大明神)。なお、境内や付近には「四十八塚」と言われる古墳群があり、古代信仰の痕跡だとの説もある。古墳時代に「県神社」であったとされる新海三社神社は、武家時代になると諏訪神等の影響を受け、佐久から上田までの広大な地域に勢力圏を誇った。なお、新海三社神社の別名を佐久神社、開神社(さく — )という。これは興波岐命が佐久地方開拓の祖神であるからだという。南北朝時代の「諏方大明神画詞」には「新開之神」(にいさくのかみ)として紹介されている。
戦国時代には武田信玄が戦勝を祈願して太刀一振りを寄進し、社殿を修復したとされ、その祈願状が遺されている[1]。江戸時代には、佐久の式内社に新海三社神社が含まれていないことから、佐久の総社たるこの古社こそ式内社であるべきだとして、論争が起こっている。明治初年の神仏分離では、新海神社三社神社の三重塔(別当寺であった新海山上宮本願院神宮密寺の三重塔)も破壊される予定だったが、神社が「これは塔ではなく宝庫である」と申し出たところ、それが認められ、今も境内に室町時代の三重塔が聳えている。また、戦前まで新海三社神社の御神幸が行われていた。乗馬した神職が南北佐久から小県郡一帯を神幸する大神事であった[2]。
その他、東末社12社の合殿、西末社12社の合殿などがある。鳥居の横に境内最大の古木で樹齢1000年以上と言われた欅の大木があった[1]。
東本殿前方20mの辺りに杉の御神木。樹齢は不明だが、1940年時点で、高さ30m以上、根元の太さ12m、目通り8mあった[1]。明治初年に仁王門が焼失した際に根元に延焼し、氏子全員が集まって数日かけて消火し、戦前、樹幹の傾きが大きくなった際には、林学博士の本多静六の指導を受けて全氏子による寄付金によって補強工作をした[1]。
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