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平安時代中期の皇族。三条天皇の三男。二品兵部卿 ウィキペディアから
寛弘8年(1011年)父の三条天皇の即位に伴い親王となる[1]。長和2年(1013年)3月、兄敦儀親王と同時に元服し、三品に叙せられる。このとき加冠を右大臣藤原顕光が務め、理髪を蔵人頭藤原朝経が務めた。同年6月兵部卿に任ぜられる。長和年間から寛仁年間(1017年-1021年)まで大宰帥に在任していた。治安3年(1023年)頃に叔父の参議・藤原通任の邸宅に居住していたが、起居の場として東廊を宛がわれており[2]、居候的な立場にあった。
万寿4年(1027年)、兄敦儀親王を飛び越えて二品に昇叙され、事実上の王氏長者になる。この異例の人事には、藤原道長・頼通父子の意向が反映されていたと考えられる。万寿2年(1025年)頃に敦平親王は中納言・藤原兼隆の娘と結婚したが、当時、道長の娘威子(後一条天皇中宮)は兼隆の邸宅を御在所にしており、敦平親王も婿として兼隆邸にいたからである。その後兼隆の奔走により王氏爵を推挙する権利を得たという[3]。
長元4年(1031年)正月の王氏爵において、前大宰大弐・藤原惟憲の陰謀により大蔵光高を「良国王」と偽って推挙してしまう。一旦良国王は従四位下に叙せられるものの、陰謀はたちまち露見し叙位は取り消される[4]。結局3月になって敦平親王は式部卿の職務を停止され、藤原惟憲は参内を禁じられている[5]。なお、同年9月には敦平親王の職務停止は解除された[6]。
『尊卑分脈』による。
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