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三河二連木城主 ウィキペディアから
戦国時代に渥美半島で勢力を持った戸田氏の嫡家に生まれる。兄の重貞は徳川家康に従って3,000貫を領したが、永禄7年(1564年)吉田城攻めで戦没した。父宜光は、重貞の妻が妊娠していたためその子への家督移譲を願ったが、家康は敢えて弟の忠重に所領を安堵して家督を相続させた[3][2]。その後の遠江国侵攻では先駆けを務めるなど活躍し、また家康より「弾正」の官途を名乗ることを許されている[10][2]。
永禄10年(1567年)二連木において病死。嫡男の虎千代(康長)は当時まだ6歳だったが、家康より特に目をかけられ、忠重の家督継承と松平氏を称することを許された。康長の直系は武蔵国深谷1万石を皮切りに転封を繰り返し、江戸時代中期以降は信濃国松本藩主を務めた[11][4][9]。
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