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日本の政治家、実業家 (1881-1954) ウィキペディアから
成沢 伍一郎(旧字体:成󠄁澤 伍一郞[1][2][3]、なるさわ ごいちろう、1881年(明治14年)4月15日[4] - 1954年(昭和29年)8月15日[4])は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。長野県上田市長[5]。上田信用金庫理事長[3]。上田信用組合長[6][7]。旧姓・小出[8]。前名・恵[6][7][9]。
長野県更級郡中津村[1][10](現・長野市川中島町)に生まれた。小出甫之助の三男[5][6][7]、小出孝太郎の弟[10][11]。1911年(明治44年)、先代・成沢伍一郎の養子となり[11]、養父の没後、伍一郎を襲名する[8]。
旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制第二高等学校を経て[4]、1914年(大正3年)7月に[9]東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業[1]。直ちに家業の絹紬買次商を継ぐ[8][12]。弁護士登録をする[4]。織物卸商を営む[10]。
1919年(大正8年)5月1日、小県郡上田町が市制施行し上田市が成立すると、同市市会議員に当選する[8]。1924年(大正13年)市会議長となり、1930年(昭和5年)5月9日、上田市長に就任した[8][13]。上田飛行場の建設、鐘淵紡績工場(カネボウの前身)の誘致などに尽力[8]。1938年(昭和13年)5月8日、退任[13]。
その他、1920年(大正9年)に部落解放融和運動団体『信濃同仁会』が発足すると、常任理事となり、1928年(昭和3年)に理事長となる[4]。1922年(大正11年)上田信用組合を設立し、同組合長を経て、のち中信銀行の常務取締役を兼職[8]。さらに、上田商工会議所会頭、上田織物組合長、上田神社大惣代など要職を歴任した[8]。
多年融和事業に尽くしたため、融和事業功労者として1930年4月の観桜御会に召された[14]。
貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する[2]。長野県多額納税者に列し、直接国税484円を納める[5]。
1915年、家督を相続[6][7]。趣味は剣道[1][10]、刀剣[6][7]。宗教は禅宗[1][6][7][10]。住所は長野県上田市原町[3][6][7]。
「雷市長」と呼ばれたが、情味豊かな人柄だった[8]。
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