憲州
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概要
唐により設置された楼煩監牧を前身とする。楼煩監牧は隴右節度使に属し、至徳年間以後は内飛龍使に属した。楼煩監牧は嵐州刺史が兼任していたが、799年(貞元15年)に楊鉢が監牧使となると、州司に関与しなくなった。889年(龍紀元年)、楼煩監に憲州が置かれ、楼煩県が設置された。憲州は河東道に属し、楼煩・天池・玄池の3県を管轄した[1]。
1002年(咸平5年)、北宋により憲州の州治は静楽県に移された。楼煩県は嵐州に移管された。1070年(熙寧3年)、ひとたび憲州は廃止され、静楽県は嵐州に移管された。1077年(熙寧10年)、再び憲州が置かれた。1115年(政和5年)、汾源郡の郡号を受けた。憲州は河東路に属し、静楽県を管轄した[2]。
脚注
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