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『慶長之掟書』(けいちょうのじょうしょ)は、1614年(慶長19年)に徳川家康によって普化宗に与えられた掟書とされる文献である。『慶長掟書』、『慶長の掟書』ともいわれる。
『慶長之掟書』は、普化宗が江戸幕府からの保護を受けていたという根拠となっている。しかし、その原本は江戸幕府にも、普化宗の各派の本山にも存在しない。また、写本も多くあり、形式としては箇条書きになっているが、条目の数は写本ごとに様々で、写本とも呼べない偽作も多い。
のち、四代将軍家綱の延宝年間に、時の老中である小笠原山城守・板倉石見守・太田摂津守列席の上でこの掟書きが確認されたとして幕末まで続いている。この「延宝の確認」は仙石騒動の際に利用されたが、これは真っ赤な偽物であった[1]。小笠原姓の老中は綱吉時代の長重(佐渡守)と幕末の長行(壱岐守)しかおらず、板倉姓では家綱を補佐した重矩(内膳正)は延宝に改元される前に死んでおり、重種(石見守)のみ条件を満たすが(延宝8年に老中、ただし翌年免ぜられる)、太田姓にいたっては家斉の時代になって初めて資愛(摂津守、備中守)が松平定信の同志として老中に就任しているというありさまである。
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