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張 龍(ちょう りゅう、? - 1397年)は、元末から明初の軍人。濠州(現在の安徽省鳳陽県)の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。
至定15年(1355年)6月、渡江に従った。
至定21年(1361年)8月、江州攻略に都先鋒として参加した。
至定24年(1364年)2月、武昌を攻略し、花槍所千戸を授けられた。
至定26年(1366年)3月、淮東を攻略し、海安を守った。張士誠軍と海口で戦い、彭元帥を捕らえ、捕虜数百を得た。
至定27年(1367年)7月、通州に侵攻し、賊将を斬った。威武衛指揮僉事に抜擢された。
洪武元年(1368年)、山東・河南平定に参加した。5月、潼関を攻略し、副留守として、これを守った。
洪武3年(1370年)、鳳翔衛指揮となり、鳳翔を守った。賀宗哲が鳳翔を囲んだ。張龍は固く守った。賀宗哲が北門を攻め、張龍は兵を出して戦った。矢傷を右肘に受けたが、動じることなく戦い続け、敵軍を大敗させた。鳳州を攻略し、李参政等20余人を捕らえた。5月、徐達が沔州を攻め、張龍は一軍を率い、鳳翔を経由して興元を攻めた。興元の守将の劉思忠は降伏した。金興旺と共に興元を守った。7月、夏の将の呉友仁が興元に侵攻し、張龍が迎え撃った。呉友仁軍は3万、興元の守備軍は3千であり、守備側が不利な状況にあった。呉友仁は繰り返し攻撃をしかけた。張龍は北門から突出し、敵軍は武器や防具を捨てて敗走した。以後、再び興元を攻めることはできなくなった。僉大都督府事となった。
洪武11年(1378年)、副将として李文忠に従い、洮州を攻略した。鳳翔侯に封ぜられ、禄2千石を賜り、世指揮使となった。
洪武15年(1382年)2月、七星関・大理・鶴慶を攻略し、諸洞の蛮族を平らげた。禄5百石を加えられた。
洪武20年(1387年)1月、馮勝に従い、6月、金山でナガチュを降伏させた。
洪武21年(1388年)、馮勝に従い、雲南へ遠征した。常徳が叛き、軍を去った。張龍は重慶まで追いかけ、これを捕らえた。
洪武23年(1390年)1月、唐勝宗と共に平越・鎮遠・貴州の屯田を行い、龍里衛を置いた。都勻で反乱がおきたときには、藍玉を補佐して、これを平定した。
洪武30年(1397年)、亡くなった。
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