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静岡県浜松市の浜名湖にある島 ウィキペディアから
浜名湖の河口(今切口)の北に位置する。面積約3平方km、周囲約7km。
浜名湖一帯のリゾート地の1つとして、海水浴・釣り・潮干狩りなど多くの客が訪れる。また、島内にはホテルもいくつか存在し、「弁天島温泉」と称している。
島の南側の湖面には大きな赤鳥居が建っているが、これは観光シンボルタワーと称されるもの。
もともとの弁天島は弁天島(西野)・西之島裏・東郷島・カラス弁天(現在2番鉄橋の西側、新幹線の下)の4島で、他の部分は昭和初期に埋立、造成したものである。
かつては「浜名郡舞阪町舞阪」の一部だったが、2005年7月1日付で浜松市に編入され「浜松市舞阪町弁天島」に住所表記が変更された。2007年(平成19年)4月1日、浜松市の政令指定都市移行の際には西区に組み入れられ、住所表記は「西区舞阪町弁天島」となった。2024年(令和6年)1月1日の浜松市の行政区再編に伴い、「中央区舞阪町弁天島」に変更された。
弁天島の周囲に人が住み始めたのは縄文中期以降とされており、現在の村櫛・新居および舞阪、弁天島にまたがった村が存在した[3]。また、弁天島湖底遺跡(蓬莱園東)からは弥生時代の土器が確認されている[4]。その後数回の海進、海退が繰り返され、さらに1498年(明応7年)の明応地震もしくは1510年(永正7年)の永正地震や暴風雨により、舞阪の西の端が切れ弁天島となった(諸説あり[5][6])。当初は狐島または西野などと呼ばれていたが1708年、弁天神社[7]が創建されたのち弁天島と呼ばれるようになった[8]。
その後、弁天島は何度となく争いの火種[4]となった。一例として、地籍をめぐって大論争となり、1740年(延亨5年)から1863年(文久3年)にかけて少なくとも4回の訴訟が発生している。舞阪宿と新居宿が協同で松を植えたこともあったが1863年、舞阪宿と新居宿の境が弁天島より西側と定められたことにより、弁天島は舞阪に属することとなった[10]。
2009年(平成21年)9月1日現在の人口は、2,982人(1世帯あたり2.40人)である[11]。
第二次世界大戦中、中島飛行機の社宅がおかれ、東京(荻窪)・武蔵・多摩の各工場から赴任した技術者や労働者が居住した[12]。
毎年7月の第1土曜日が海開きとなっており、大太鼓がたたかれる。以前は同日に弁天島海開き花火大会が行われていた[13]。また、弁天神社の祭礼が海開き1週間前に行われる。
このほか、舞ちゃん夏まつりやHAMANAKO HaNaBi BENTENJIMA GATEWAY Festivalも行われている。
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