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旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌 ウィキペディアから
廃墟からの復活(独: Auferstanden aus Ruinen)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ:DDR)の国歌。ヨハネス・ロベルト・ベッヒャー作詞[1]、ハンス・アイスラー作曲[1]。
Auferstanden aus Ruinen | |
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和訳例:廃墟からの復活 | |
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別名 | 廃墟より甦れ |
作詞 | ヨハネス・ロベルト・ベッヒャー |
作曲 | ハンス・アイスラー |
採用時期 | 1949年 |
採用終了 | 1990年 |
音楽・音声外部リンク | |
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廃墟からの復活(合唱つき) | |
Nationalhymne der DDR (1949) - ベルリン放送交響楽団・合唱団の演奏、Amiga提供のYouTubeアートトラック |
1949年、ソ連占領下のドイツにドイツ民主共和国が成立した際に、後に文化大臣となる詩人 ヨハネス・R・ベッヒャーが作詞した[1]。合わせて2人の作曲家がベッヒャーの歌詞に対して曲を提案し、ハンス・アイスラーのものが採用された。この曲には、祖国統一と第二次世界大戦による荒廃からの復活の願いがこめられている[1]。
1949年に書かれた東ドイツの国歌は、分割占領されたドイツの政治状況を反映しており、東西ドイツの統一を目指すことは、適切で自然なものとして受け取られた。その結果、ベッヒャーの歌詞は、「祖国統一」のいくつかの意味合いを発展させ、それらを「einig Vaterland(アイニヒ・ファーターラント、一つの祖国)」、つまりドイツ全体を意味する表現を含めたが、このような概念は緊迫する冷戦の状況に適合せず、特にベルリンの壁が1961年に東ドイツ政府によって構築された後はその現状に反することになった。このような事情を踏まえて、当初は公の場で歌唱していたものの[1]1970年代に入りソビエト連邦からこの部分の歌詞が東西分裂の現状にそぐわないと圧力が掛かったため、以降はこの部分の歌唱が禁じられて[1]メロディーのみが演奏されていた。その後、「(公共)放送の終了に国歌が歌詞と共に歌われるようになったのは、壁崩壊後の1990年1月から9月まで」であった[2]。
なお、ベッヒャーの歌詞は戦前のドイツの国歌であった『ドイツの歌』と韻律が同じであり、ハイドンの曲に合わせてもぴったり歌えるが、これは偶然ではない[3]。
Nationalhymne der Deutschen Demokratischen Republik[4]
1
廃墟より復興し
未来へ向かって
一つの祖国ドイツの
公共のため奉仕しようではないか。
克服しなければならない古き苦境は
団結して克服にあたろう。
私たちは成し遂げなければならない
太陽をかつてないほど美しく
ドイツの上に輝かせることを、ドイツの上に輝かせることを。
2
ドイツ、私たちの祖国に
幸福と平和がありますように。
全世界は平和を切望し
諸国の人民とドイツの人民の手を繋がせる。
私たちが同胞として団結すれば
人民の敵を打ち負かすことができる
平和の光を輝かそう
母がもう二度と
息子の死を嘆くことのないように、息子の死を嘆くことのないように。
3
耕そう、建設しよう
かつてないほど学び、創り出し
自分の力を信じた
自由な世代が立ち上がる。
ドイツの若者よ
私たちの人々の最善の努力は君の中に集約されている。
諸君はドイツの新しい命となり
太陽はかつてなく美しく
ドイツの上に輝く、ドイツの上に輝く。
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