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庄司 和晃(しょうじ かずあき、1929年2月 - 2015年5月5日)は日本の教育実践家・教育学者。本名は庄司宗晃(しょうじむねあき)。
1929年山形県西村山郡本郷村葛沢(現、大江町葛沢)で生まれる。生家は曹洞宗の寺院で、父親はその住職。山形県立寒河江中学校に入学したが、予科練を志願し、その後小松海軍航空隊に転勤。一時期、藤沢市の日本精工に動員される。その後、中学校を卒業し、山形師範学校入学。卒業後、1948年より長井市豊田小学校に赴任。翌1949年に成城学園初等学校に教諭として転職。当時、成城学園にて社会科構想を説いていた柳田國男に師事する。1955年日本大学文学部(現、文理学部)宗教学科卒業。
理科教育の実践と研究にも尽力し、「支配」理論と題した理科教育論を展開。さらに板倉聖宣らとともに仮説実験授業を提唱する。一方で、三浦つとむの助言を受けつつ、独自にコトワザ研究およびコトワザ教育の実践に取りかかる。この仮説実験授業とコトワザ教育の研究と実践の成果を踏まえて、認識の三段階連関理論を創出する。
成城学園から1977年に大東文化大学助教授に転職し、この年から1997年まで、成城大学でも非常勤講師として教鞭を執り、社会教育を担当していた。この授業では柳田民俗学なども扱っていた。その後は大東文化大学教授を務め、「全面教育学」と題した自身の教育学体系を発表。その成果は、「著作集」にまとめられている。また薄井坦子の紹介により、看護系大学にて認識論の講義も行う。なお、お茶の水女子大学・東京大学・京都大学などの非常勤講師も歴任した。
大学退職後は宗教教育研究を行っていた。全面教育学研究会などでも活躍していたが、2015年5月5日、膵臓がんにより死去。
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