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広幡基豊

江戸時代後期の公卿。従一位・内大臣。広幡家7代 ウィキペディアから

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広幡 基豊(ひろはた もととよ)は、江戸時代後期の公卿。官位は従一位内大臣

概要 凡例広幡基豊, 時代 ...

歴代当主同様、近衛家猶子になったと思われ、慣例により近衛基前から偏諱の授与を受けて基豊と名乗った。

生涯

享和2年(1802年)に叙爵。清華家当主として速いスピードで昇進し、文化10年(1813年)には従三位となり、公卿に列する。その後も権中納言踏歌節会外弁・権大納言・踏歌節会内弁などを務め、弘化4年(1847年)に皇太后となった鷹司祺子皇太后宮大夫となる。嘉永2年(1849年)に右近衛大将右馬寮御監となる。安政2年(1855年)の孝明天皇の遷幸に際して、基豊は居飼2名、随身6名、見寺2名、舎人長1名、馬副8名、傘1名の計20名を集めて天皇に供奉した。安政4年(1857年)に従一位内大臣となるも同年に薨去。

系譜

関連項目

先代
広幡経豊
広幡家
第10代
次代
広幡忠礼
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