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日本の教育者 (1929-2023) ウィキペディアから
平岡 英信(ひらおか ひでのぶ、1929年7月23日[1][2][3][4] - 2023年12月16日[5][6])は、日本の教育者、実業家、篤志家、学校法人清風学園学園長兼理事長、大阪「正論」懇話会代表幹事。
清風中学校・高等学校の学校長、学校法人清風南海学園の理事長及び学園長を歴任した。
1927年、京都府京都市生まれ[3][4]。1954年3月、大阪大学理学部数学科卒業[3]。
同年4月、学校法人清風学園に入職し、同日付で清風中学校・高等学校副校長に就任する。父・平岡宕峯の右腕として、いわゆる「不良校」(教育困難校)だった清風学園を日本有数の文武両道の進学校へと育て上げた[7]。1963年、新設法人「学校法人清風南海学園」の理事に就任し、南海グループ傘下の南海高等学校を継承して「清風南海高等学校」と改称。1983年4月に「清風南海中学校」を併設し、本校と並ぶ中高一貫進学校へと発展させた。1985年に清風学園理事、清風中学校・高等学校2代目校長に就任した[4]。1994年7月、亡くなった宕峯の後任として、清風学園及び清風南海学園2代目理事長に昇任。2011年4月、校長職を長男の平岡宏一に譲り、自身は理事長兼学園長となった。
2023年12月16日、肺炎による呼吸不全のため死去[5][6]。94歳で亡くなるまで、学校法人清風学園の理事長兼学園長として学校経営の第一線に立ち続けた。
長男で仏教学者の平岡宏一が種智院大学の訪問団の一員として、インド南部カルナータカ州バンガロール郊外フンスールにあるギュメ密教大学(ギュメ寺、ギュメ学堂)に留学した。当時のギュメ寺は、本堂は雨期の雨漏りが常態化、僧侶は空腹を抱えたまま、雨ざらしの中で寝泊りをするという悲惨な状況であった。帰国した宏一からこうした惨状の報告を受けた英信は、施主(檀越、僧伽を支えるパトロン)としてギュメの支援に乗り出し、竹中工務店の協力の下、本堂を再建した。特に宏一が弟子入りしたロプサン・ガワン(1937-2009, ギュメ管長(位2000-2003))とは家族ぐるみで親交を深めた[8]。
その他、以下の役職を歴任した。
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