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広島市の橋 ウィキペディアから
常盤橋(ときわばし)は、広島県広島市の京橋川に架かる道路橋。
JR広島駅から市内中心部へ向かうときに渡る橋の1つ。
城北通り筋(広島県道37号広島三次線および広島県道84号東海田広島線)にかかる橋。西詰は市内中心部の白島にあたり、最寄に広島電鉄白島線の白島停留場がある。
上流にJR山陽新幹線および山陽本線の鉄橋があり、右岸護岸は東部河岸緑地が広がる。下流に縮景園、少し先に下ると被爆橋梁の栄橋がある。
正式表記は「常盤橋」であるが、#原爆戦災誌などの被爆資料や橋銘板では旧橋名の「常葉橋」が用いられているため、現在でも常葉橋のほうも多く使われている。また、市の資料などでは「常磐橋」も使われている。
藩政時代、防犯のため城下には架橋規制がしかれており[1]、京橋川には上流にある神田橋と下流にある京橋のみであった。また当時、本川(現・旧太田川)分流点から下流にある猿猴川分流点までの京橋川は「神田川」と呼ばれていた。この位置には渡し場が設けられていた[2]。
明治時代に入ると架橋規制は解かれ、1879年(明治12年)この地に木橋として架橋[2]、「常葉橋」と名前が付いた。大正時代に入ると地元では「常盤橋」の名が使われるようになる。1911年(明治44年)に架け替えられたが[3]、1923年(大正12年)6月洪水により破損した[4]。
1928年(昭和3年)6月に水害により流出してしまった[5]ため、翌1929年(昭和4年)に鉄筋コンクリート桁橋として再架橋される[2]。その後、西詰に広島市警防団白島分団本部が置かれるようになる[6]。当初は鉄製高欄を用いていたが、太平洋戦争にはいると金属類回収令によりすべて軍事供出され、石製高欄に替えられた[2]。
1945年(昭和20年)8月6日原爆被災(爆心地より約1.55km)。橋床のアスファルトが熱線により自然発火、石製高欄は川へ落ちたものの、落橋はしなかったため、避難者はここを渡って市内中心部から東へと逃げて行った[7]。ただ、西詰の警防団本部にあったガソリンが炎上し猛火となったため、一時渡れないときもあった[7]。
その後修理され使われていたが掛け替えが決定、1975年(昭和50年)に一部供用を開始、2年後に旧橋が全撤去され、1978年(昭和53年)に現在の形となった。
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