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日本の戦国時代~安土桃山時代の武将。織田禅正忠家(織田信長→信忠)・豊臣家の家臣。美濃国人衆石橋利尚の子で、美濃青柳城主(後に福束城主)。官位は壱岐守。織田家馬廻を勤めた ウィキペディアから
市橋 長利(いちはし ながとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田信長の家臣。美濃国青柳城主、後に福束城主。通称は九郎右衛門または九郎左衛門、壱岐守。一斎とも号した。
美濃市橋氏は、藤原氏支流(三条家末流[5])とも清和源氏頼親流[7]ともいうが、美濃国池田郡市橋の庄を領したことからその名がある[8]。美濃斎藤氏が没落するより早くから織田氏に属した[1]。織田信長に仕えた「市橋」某が永禄6年(1563年)4月24日、高木貞久の降伏を信長に仲介している[10]。
信長の入京後、九郎右衛門(長利)は近臣として活躍[1]。信長馬廻だが、西美濃の三人衆に次ぐ存在[1]。
永禄12年(1569年)8月、伊勢大河内城攻めに参加。元亀元年(1570年)6月の近江小谷城攻め、続く佐和山城攻めに参加。元亀2年(1571年)の長島攻め、翌3年(1572年)の小谷城攻め、天正元年(1573年)の浅井家を滅亡させた8月の戦いにも参加した[1]。
天正3年(1575年)11月、信長が嫡男の信忠に家督を譲ると信忠直属となったらしい[1]。
天正6年(1578年)正月、信長の茶事に招かれ、芙蓉の絵を賜る[11]。同年6月、信忠の命令で播磨国の砦の警護に置かれた[1]。
天正8年(1580年)、信長より米銭の債権を安堵されたときに、「壱斎(一斎)」と号している[1]。
本能寺の変では明智光秀に呼応せず織田方となり、羽柴秀吉が台頭すると秀吉に従って、天正12年(1584年)2月に河内国交野郡星田庄や美濃池田郡などの所領を安堵された。
天正13年(1585年)3月13日に死去。享年73。法名を節爺宗竹[4]、京都紫野にある大徳寺の塔頭・総見院に葬られた[12]。跡は嫡男の長勝が継いだ。
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