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歌舞伎役者 ウィキペディアから
八代目 市川門之助(はちだいめ いちかわ もんのすけ、1959年(昭和34年)9月24日 - )は歌舞伎役者。屋号は瀧乃屋。定紋は四ツ紅葉。歌舞伎名跡「市川門之助」の当代。
父は先代門之助で、二代目猿之助や七代目尾上菊五郎の一座で活躍した名脇役。祖母(父の養母)は初代市川左團次の娘で、二代目市川齊入は遠縁にあたる〔齊入の曾々祖父である初代齊入(初代右團次)が門之助の曾々祖父・左團次の弟〕。このため市川左團次家とも縁戚関係にはないが関係がある。
1969年(昭和44年)2月、歌舞伎座『義経千本桜』鮨屋の六代君ほかで二代目市川小米を名乗り初舞台。
1990年(平成2年)10月に父・七代目門之助が急逝。2か月後の同年12月に三代目猿之助(現・二代目猿翁)が後見となり歌舞伎座『義経千本桜』「四の切」の九郎判官義経ほかで八代目市川門之助を襲名、同時に名題昇進。
父である先代も女形・立役を問わず演じたが、自身も二枚目からどっしりとした敵役、若女形、老婆まで幅広くこなす。演目も時代物、世話物、新作歌舞伎とジャンルを問わない。面長で古風な顔立ちで品位があり、どんな役でも風情を漂わす。
義経を当たり役としている「四の切」に2010年代だけでも義経のほか「静御前」「駿河次郎」などで度々出演している事実だけでもその芸の幅の広さがうかがい知れる。
三代目猿之助のスーパー歌舞伎(および四代目猿之助のスーパー歌舞伎Ⅱ)には、1986年のヤマトタケル初演時に前名の小米で出演(琉球の踊り子/クロマルほか[2])して以来、今日まですべての作品に皆勤で出演している数少ない出演者である。
ハワイ州立大学の演劇部歌舞伎プロジェクトに参画し学部生の授業やオープン講座を行っている[3]。
妻は大学で英語を教えている。門之助のブログには英語訳が併記されているが、これは妻によるもの[4]。
姉が二人おり、上の姉は元女優で十一代目市川高麗蔵の妻である市川八重、下の姉は元宝塚女優の彩辰美(63期)。
伝統歌舞伎保存会会員。
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