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ディープ・パープルのアルバム ウィキペディアから
嵐の使者(Stormbringer) は、イングランドのロック・バンドのディープ・パープルが1974年に発表したアルバム。第3期の2作目で最後のスタジオ・アルバムになった。
前作『紫の炎』から加入したデイヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズが持つ音楽性の比重がさらに増えて[注釈 1]、ギタリストのリッチー・ブラックモアが理想とする音楽との乖離が強まったため、様々な問題を抱えながらの製作となった。ブラックモアはイギリスのバンドであるクォーターマス[注釈 2]が取り上げた楽曲「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」[注釈 3]を録音することを提案したが、他のメンバーはオリジナル作品に執着して彼の提案に反対した[4]。
レコーディングは1974年8月、ミュンヘンのミュージックランド・スタジオで行われた[5]。プロデュースはディープ・パープルとマーティン・バーチ、ミックスダウンはバーチとドラマーのイアン・ペイスが行った。その後、ロサンゼルスのレコード・プラント・スタジオで最終的な仕上げが行われた。
本国イギリスでは6位、アメリカでは20位まで上昇しゴールドディスクを獲得した。
ブラックモアは「最低のアルバムだ」と零し、一般の評価もあまり芳しいものではない。しかし従来のハードで直線的な曲よりも多彩な音楽性を加味した曲が増え、新しい試みも感じられる。前作『紫の炎』で見せた新たな方向性をさらに押し広げた作品に仕上がっている。
ディープ・パープルは本作の発表に先駆けて、数年前から彼等の前座を務めていた「エルフ」[注釈 4]と共に11月中旬から約一か月間、アメリカ・ツアーを行なった。ブラックモアはエルフのボーカリストであるロニー・ジェイムス・ディオを起用して、「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」をソロ・シングルとして発表することにした。彼はツアーに参加しながらディオと「16世紀のグリーンスリーブス」を共作し、ツアー終了直前にフロリダのスタジオでディオ、エルフのキーボーディスト、ベーシスト、ドラマーとシングル「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー/16世紀のグリーンスリーブス」を録音した[7]。これが期待以上の出来だったため、彼はソロ・シングルを発表する代わりに、ディープ・パープルを脱退してディオ達と新しいバンドを結成することを決意した。
彼は1975年2月から3月まで、ミュージックランド・スタジオでディオ達と新しいバンドのデビュー・アルバムを制作した[8]。終了後、ディープ・パープルのヨーロッパ・ツアーに参加して、4月7日のパリ公演を最後に脱退した[注釈 5]。
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