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崇実(すうじつ、チュンシ、満洲語: ᠴᡠᠩᡧᡳ[1] 転写:cungši、繁体字:崇實、Chongshi、1820年 - 1876年)は、清朝の官僚。字は子華。満洲鑲黄旗人で、金の皇室ワンギャ氏(wanggiya hala、完顔氏)の末裔。
嘉慶25年(1820年)、河道総督麟慶(リンキン)の長男として生まれた。道光30年(1850年)に進士となり、翰林院庶吉士、侍講学士、内閣学士、戸部侍郎、工部侍郎などを歴任した。咸豊9年(1859年)、駐蔵弁事大臣に任命され、任地に赴く途中に四川総督代理を命じられた。
当時の四川省では李永和・藍朝鼎らの蜂起軍が雲南省から侵入し、勢力をふるっていた。崇実は湖北巡撫駱秉章と協力して戦いに当たり、咸豊11年(1861年)に駱秉章が四川総督となると成都将軍に転任となった。その時、藍朝鼎は十数万の衆を率いて綿州を包囲していたが、崇実・駱秉章の軍は敵を撃破して綿州の包囲を解き、同治元年(1862年)に丹棱で藍朝鼎を戦死させた。同治7年(1868年)には唐炯を貴州省に派遣して、号軍やミャオ族の蜂起を鎮圧させた。
同治10年(1871年)に北京に呼び戻され、鑲白旗蒙古都統に任命され、同治12年(1873年)に刑部尚書となった。光緒元年(1875年)、盛京将軍に任命され、馬賊対策と行政改革にあたった。在任中に死去。死後、「文勤」の諡号が贈られた。
父の麟慶は清朝の河道総督を務めた人物である。弟の崇厚(チュンホウ)は三口通商大臣を務めた。子の嵩申は1868年(同治七年)戊辰科の第三甲進士で、その妻の楊佳氏は内務府鑲黄旗漢軍に属し、道光二十五年乙巳科二甲進士宜振の姪にあたる。
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