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岩村田藩(いわむらだはん)は、信濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を支配した藩。藩庁は岩村田陣屋に置かれた。藩主家は内藤氏[1]。
元禄16年(1703年)8月、武蔵国赤沼藩(武蔵国・上野国・常陸国・上総国・下総国など各地で1万5000石)から転じて内藤正友が佐久郡のうち27か村で1万6000石を与えられ、岩村田陣屋が置かれたことに始まる。その後、1万石分が摂津国・河内国(現在の大阪府)内の地へ一時移封されたが、その次男である第2代藩主・内藤正敬の代に再度佐久郡内の地へ移封された。また三男の内藤正直に1000石が分知された。このように所領の場所が頻繁に入れ替わることが多かったが、藩政で特に見るべきところはなく、そのまま代替わりした。財政はあまり良くなかったとみられ、子供の手まり歌にまで「かねがないとう…」などといわれていた[2]。
第6代藩主・内藤正縄は老中・水野忠邦の実弟であった関係で、伏見奉行となってその功績により城主格に昇進された。最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵した。この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年(1869年)に版籍奉還が、更に廃藩置県が行われて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となり、岩村田県は長野県に吸収された。
なお、建物として蔵が陣屋跡近くの中嶋公園に移築現存していたが現在は解体撤去され痕跡を留めていない。
歴代の墓所は青山霊園に合葬されている。
代 | 氏名 | 官位・官職 | 就封 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 内藤正友 ないとう まさとも |
従五位下・式部少輔 | 武蔵赤沼藩 1万5千石より入部 |
元禄16年 - 正徳元年 (1703年 - 1711年) |
内藤正勝の長男 |
2 | 内藤正敬 ないとう まさゆき |
従五位下・下総守 | 遺領相続 (父の死去により) |
正徳元年 - 延享3年 (1711年 - 1746年) |
先代の次男 |
3 | 内藤正弼 ないとう まさすけ |
従五位下・美濃守 | 遺領相続 (父の死去により) |
延享3年 - 明和7年 (1746年 - 1770年) |
先代の長男 |
4 | 内藤正興 ないとう まさおき |
従五位下・志摩守 | 遺領相続 (父の死去により) |
明和7年 - 寛政4年 (1770年 - 1792年) |
先代の次男 |
5 | 内藤正国 ないとう まさくに |
従五位下・美濃守 | 遺領相続 (養父の死去により) |
寛政4年 - 享和2年 (1792年 - 1802年) |
養子(先代の娘婿) 肥前唐津藩の第2代藩主・水野忠鼎の四男 |
6 | 内藤正縄 ないとう まさつな |
従五位下・豊後守 | 遺領相続 (叔父の死去により) |
享和3年 - 万延元年 (1803年 - 1860年) |
養子(先代の甥) 肥前唐津藩の第3代藩主・水野忠光の三男 |
7 | 内藤正誠 ないとう まさのぶ |
従五位下・志摩守 | 遺領相続 (祖父の死去により) |
万延元年 - 明治4年 (1860年 - 1871年) |
養子(先代の孫) 先代の長男・内藤正義の長男 |
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