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山本 康夫(やまもと やすお、1902年10月27日 - 1983年5月30日)は広島県で活動した日本の歌人。1930年より広島で短歌結社「真樹」(しんじゅ)を主宰。日本歌人クラブ中国地区幹事や、広島県歌人クラブ会長も務めた[3]。「真樹」の活動で第2回(1981年度)広島文化賞を受賞[2]。短歌の理念として「内面客観」の理論を唱えた。
1902年、長崎県北高来郡小栗村(現・諫早市小栗)生まれ[1]。土師野尾(はじのお)尋常高等小学校および同高等科を卒業。1917年ごろ、「アララギ」に入会。[4]
1924年、帝国通信社東京本社に入社[3]。同時期より尾上柴舟に師事する[1]。1928年、第一歌集『萱原』(かやはら)を刊行。同年、田中紀代子と結婚[3]。
1929年1月、帝国通信社の岡山支局長になるが、3月に同局が閉鎖。4月、中国新聞社に入社する[4]。翌1930年に広島で、月刊の歌誌『処女林』を創刊。1931年に『新樹』に改題、1932年には現行の『真樹』(しんじゅ)に改題した[1]。
1945年8月6日、広島で被爆し、長男を亡くす。このときの家族の凄絶な体験を山本は、被爆の半年後に発表した「幻」(別題「浄土に羊羹はあるの?」)という小文に綴っている[5][6]。また、被爆体験に関連して詠んだ短歌は、没後に編纂された『閃光 : 原爆歌集』(1998年)にまとめられている。
1946年8月6日、広島で児童雑誌『ぎんのすず』が創刊されると、山本も執筆陣に名を連ねた。[1]
1946年8月9日 中国新聞社が被爆1周年に合わせて募集した「歌謡ひろしま」の歌詞に、妻の山本紀代子名義で応募し入選。8月9日付の中国新聞紙上で発表された。作曲は古関裕而。この歌は発表後レコードなどにならなかったため、長く忘れ去られたままであった。=>2020年を参照。
1950年、福山市の「広島原爆記念会」が企画した原爆焼に山本の短歌が書かれた。この原爆焼も存在が忘れられていたが、2016年に発見された[7]。
1957年10月、中国新聞社を定年退職[4]。
1961年、妻の紀代子が死去[3]。翌1962年、原田節子と再婚した[3]。節子ものちに山本節子の名で第一歌集『三つの珠』(1968年)、『慰霊 : 原爆歌集』(1998年)などを上梓している。
1983年5月30日、80歳で死去。康夫が50年にわたって主宰した短歌結社「真樹」は、康夫の死後、妻の山本節子が第二主幹となった。その後、娘の山本光珠が主幹を務める。
2020年、1月3日付『中国新聞』が1946年8月9日の「歌謡ひろしま」の記事を発掘し報道した。2020年上期のNHK連続テレビ小説「エール」が作曲家の古関裕而をモデルにしていることも相まって、NHK広島放送局が5月19日の「お好みワイド広島」で取り上げ、曲を紹介した。さらに10月30日には「よみがえる幻の歌 古関裕而 歌謡ひろしま」という特別番組を放送(広島放送局のみ。11月17日未明にNHK-BS1で全国放送)した。同番組の取材により、1946年当時、自分が勤務していた新聞社の歌詞募集に本名で応募するのはまずいという判断で、妻の紀代子名義で応募したという事実が明らかになった。
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