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能の演目 ウィキペディアから
『山姥』(やまんば、やまうば)は、山に棲む妖怪である山姥を素材にした能の作品。五番目物・鬼女物に分類される。囃子に太鼓が入る太鼓物である[3]。
能のあらすじは次のとおりである。都で、山姥の山めぐりを題材にした曲舞を舞って名声を得た、
『申楽談儀』の記述や、修辞・引用の特徴などから、世阿弥の作と考えられる。特に典拠はなく、世阿弥のいう「作り能」と思われる(→作者・沿革)。
山姥の曲舞を舞って評判をとった百ま山姥の前に、本物の山姥が現れるという凝った構成となっている。また、山姥が「煩悩即菩提」という禅思想を説きながら、しかも最後まで妄執にとらわれ続けるという逆説が、そのまま「煩悩即菩提」という主題を体現している。晩年の世阿弥が、禅の思想に親しんでいたことを示す作品である(→特色・評価)。
都で山姥の山めぐりを題材にした曲舞を舞って名声を得た、
ワキ・ワキツレ〽善き光ぞと影頼む。善き光ぞと影頼む。仏の |
[従者ら]ありがたい弥陀の光明を頼りとして、善光寺を訪ねよう。 |
従者は、道を尋ねようと言って、在所の者(アイ)を呼び出す。在所の者は、
ツレ「げにや常に承る。 |
従者(ワキ)は、所の者(アイ)に道案内を頼み、一同は山道を進むが、やがて日が異様に早く暮れかけることに気付き、途方に暮れる。そこに、女(前シテ)が現れ、一夜の宿を申し出る。女は、百ま山姥の一行と察しており、山姥の曲舞を謡ってほしいと所望する。そして、山に住む女を山姥というのなら、私こそ山姥ではないかと言い、私の身を弔ってほしいと、曲舞を所望する理由を述べる。
女(前シテ)は、
ワキ「あら不思議や。暮るまじき日にて候ふが |
[従者]ああ不思議だ。暮れるはずもない日中なのですが、急に日が暮れてきました。さてどうしたものでしょうか。 |
百ま山姥が、曲舞を謡おうとすると、女は、月夜の中謡ってくだされば、真の姿を現しますと言って、姿を消した(中入り)。
ツレ〽不思議の事を聞く物かな。扨は誠の山姥の。是まで来り給へるか。 |
[百ま山姥]不思議なことを聞くものです。さては真の山姥が、ここまで来られたのですか。 |
所の者(アイ)が出て、日が暮れたかと思うとすぐ夜が明ける山の不思議を述べ、従者(ワキ)に、山姥のことを語って聞かせる[9]。
所の者(アイ)の語りは、山姥には鬼女ならぬ「木戸」がなるものだというような珍説を述べては従者(ワキ)に否定されるという、滑稽味のあるものである[10]。
百ま山姥は、女の出現を待つ。
ツレ「あまりの事のふしぎさに。さらに誠と思ほえぬ。鬼女が |
そこに山姥(後シテ)が現れる。山姥は、前世の悪業により鬼となった者は自らの死屍を鞭打ち、前世の善行により天人となった者は自らの死屍に散花するという説話を引くが、「いや善悪不二」と、禅的な思想を説く。
山姥(後シテ)は、山姥の面、山姥鬘を着け、装束は無紅唐織、半切、扇の鬼女出立である。鹿背杖を突いている[13]。
百ま山姥(ツレ)と山姥(後シテ)との掛け合いの中で、山姥の姿が、髪は乱れて白髪で、眼光鋭く、顔は朱の鬼瓦のように醜いと描写される。山姥は、自らを『伊勢物語』で女を一口に喰った鬼になぞらえ、同じように物語されるのではないかと恥じる。
ツレ「恐ろしや月も |
[百ま山姥]恐ろしいことだ、月の光も差さない深い山の陰から、様変わりした様子の顔つきで現れたのは、山姥でいらっしゃいますか。 |
百ま山姥が、「よし足引の山姥が。山廻りするぞ苦しき。」という謡い出し(次第)から始まる曲舞を謡い始める。
シテ「春の |
[山姥]花は香り、月はおぼろ月の春の夜の一時は、千金にも代えがたいという[注釈 9]。そして願っていたように偶然出会った人の曲舞の一曲。そのように少しの時も惜しまれる夜に、早く早くお謡いください。 |
山姥の境涯を語る曲舞に合わせて、山姥が舞う。山姥が住む人気のない山や谷の情景から始まり、山や谷を仏教における菩提や衆生にたとえる。また、山姥が樵や機織りの女を手助けすることを語る。そして、「唯打ち捨てよ何事も」と妄執を捨て去ることを説きつつも、妄執から逃れられない我が身を「よし足引の山姥が。山廻りするぞ苦しき。」と再び謡うところで曲舞が終わる。
シテ〽 |
[山姥]そもそも山というのは、塵や泥から起こって、天の雲にかかる千丈の峰にまで高くなったもの[注釈 13]。 |
山姥は、鹿背杖を持って、山めぐりの様子を見せる(立廻り)[17]。
シテ〽あしびきの。 |
[山姥]足びきの |
山姥は、春は咲く花、秋はさやけき月影、冬は冴え行く時雨の雪と、雪月花に寄せて山めぐりの様子を舞って見せ、消え失せる。
シテ〽一樹の陰 |
[山姥]一つの樹の陰に宿ったり、一つの河の流れを汲んだりという偶然の出会いも、みな前世の縁である[注釈 24]。ましてや、あなたは、曲舞の中で私の名を言って世渡りの業としている。その芸能の道は、仏法帰依のよすがとなるのです[注釈 25]。ああ、お名残惜しい。お暇を申し上げて帰る山の、 |
世阿弥の芸談をまとめた『世子六十以後申楽談儀』には、「山姥、百万、これらは皆名誉の曲舞どもなり」、「実盛・山姥もそばへ行きたるところあり……当御前にてせられしなり」とあり、世阿弥自身が上演したことが分かる。そのほか、修辞や引用の特徴などから、世阿弥の作とする見解が一般的である[20]。
世阿弥による「そばへ行きたるところあり」という評価は、趣向に凝っているということと思われる[23]。すなわち、構成面においては、山姥の曲舞を舞って評判をとった百ま山姥の前に、本物の山姥が現れるという入れ子構造がとられている。また、妄執の権化である山姥が、「煩悩即菩提」という禅思想を説きながら、しかも最後まで妄執にとらわれ続けるという逆説的な物語となっており、そのこと自体が「煩悩即菩提」という主題を体現している[24]。晩年の世阿弥が、禅の思想に親しんでいたことを示している[25]。
本作品に現れる山姥は、人を喰う恐ろしい鬼女ではなく、むしろ仙女のような存在であり、自然そのものの象徴、あるいは人間の象徴とも考えられる[26]。
一曲を通じて、優美な感じもある一方で鬼気がみなぎっており、「力と速度の能」と言われるとおり、ダイナミックで迫力に満ちた作品である[26]。
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