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山姥切国広(やまんばぎりくにひろ[2])は、安土桃山時代に作られたとされる日本刀(打刀)であり、日本の重要文化財に指定されている。重要文化財指定名称は「刀 銘九州日向住国広作 天正十八年庚刁弐月吉日平顕長(山姥切)」[3][注釈 1][注釈 2]。
安土桃山時代に活躍した刀工・堀川国広作の日本刀であり、南北朝時代の備前長船長義作の刀「本作長義」(徳川美術館蔵)[注釈 3]の写しとして作られた。山姥切国広と本作長義は、峰の形状と樋先の位置関係などは正確だが反りを含めた全体の姿形と茎仕立てはあまり似ておらず、当時の刀工が持つ写しについての意識と現代の復元模造に対する意識の違いが表れている[5]。昭和時代の刀剣研究家である本間順治は「単なる模作ではなく、地刃の働きと、すすどしさは長義をさらに強調し、放胆の味さえ加わって長義の作中にあっても出色のもの云い得よう。」と本作を評した[6][7]。堀川国広の「慶長打(堀川打)」と呼ばれる相州伝に学んだ後期の作風は、相伝備前[注釈 4]の典型作である本作長義を写したことが契機になったとみる説もある[8][9]。本作は1962年(昭和37年)6月21日に重要文化財に指定されたが[10][4]、本歌にあたる本作長義も1949年(昭和24年)2月18日に重要文化財指定を受けており、2020年(令和2年)時点では刀剣において本歌と写しが共に重要文化財である唯一の事例となっている[11][10]。
1590年(天正18年)2月に足利城主長尾顕長の依頼により打たれたことが銘からわかる(長尾顕長の当時の状況については本作長義#来歴を参照)。山姥切国広の作刀場所は、小田原城説と[12][13]、足利学校説[14][15][16]がある。徳川美術館学芸員の原は、「福永酔剣の説によると当時の刀工は冬至から夏至の間に打った刀に「二月」、夏至から冬至の間に打った刀に「八月」と刻む習慣がある。国広在銘の57振の銘文を確認したところ二月銘が18振、八月銘が23振と突出して多いことから、国広も当時の慣習に倣っていた可能性は高く、本作も1590年(天正18年)正月から旧暦の夏至にあたる5月の間まで作刀期間が広がる」という著述家さよのすけの説を紹介している[17]。福永酔剣自身も「(銘の「二月吉日」は)鍛冶の二月、冬至から夏至にいたる間を意味すると思われる」と述べている[13]。
後北条氏滅亡により長尾家が没落してから発見されるまで伝来は、1920年(大正9年)10月25日に採取された刀剣研究家・杉原祥造の押形からわかる。当時の所有者である三居翁によると次の通りに伝わっている[18]。「小田原北条家の浪人である石原甚五左衛門が本作を所持し、山姥を切った(後述)。石原は関ヶ原の戦いで井伊家に陣借りして一働きしようと待ち構えていたところ、刀を折って困っていた井伊家家臣の渥美平八郎へこの刀を与えた[19]。石原家と渥美家は共に井伊家で三~四百石扶持の足軽大将となり、明治維新まで同家に仕えた。明治維新後に渥美家は困窮したため、本作を彦根長曽根で醤油屋を営んでいた北村家へ質入れしたが、質流れとなったために同じ旧彦根藩士である三居家が請け出して所持していた[19][注釈 5]。」
1928年(昭和3年)に刊行された『新刀名作集』に押形が掲載されたことで本作は知られていったが、同書刊行時点では関東大震災で焼失したことになっていたため[21]、1954年(昭和29年)刊行の堀川国広研究書『國廣大鑒』にも焼失と書かれている[22]。
しかし1960年(昭和35年)、財団法人日本美術刀剣保存協会名古屋支部に属していた高橋経美が「旧家臣の某氏」から本作を譲り受けたことをきっかけに本間順治が本作を再発見した[21][注釈 6]。関東大震災時点では旧彦根藩主の井伊家が山姥切国広を所持していたと刀剣業界では認識されていたが[23][11]、「旧家臣の某氏」は30年余り本作を所持していたとされることから三居家にそのまま伝来したものと考えられ、井伊家伝来説は事実誤認の可能性が高い[21]。その後、1962年(昭和37年)に本作は重要文化財に指定された[1]。2020年時点では千葉県の個人の所有とされている[24][25]。
2015年(平成27年)に公開されたPCブラウザ・スマホアプリゲームである『刀剣乱舞』において、刀剣男士として山姥切国広をモデルとしたキャラクターが登場していることから注目を受けるようになる[26][2]。2017年(平成29年)3月4日から4月2日にかけて、足利市立美術館で約20年ぶりに公開展示された[2]。会期中の来場者数は延べ37,800人であり、従来の企画展の最多記録が2カ月間で約24,000人であったのを1カ月で上回る過去最多の来場者数を記録した[26]。2022年(令和4年)2月11日から3月27日にかけて、同館で開催された足利市制100周年記念特別展にて公開展示された。新型コロナ禍による外出自粛の影響もあり、45日間の会期中の来場者数は2017年の展示の約3割減となる延べ25,000人となった[27]。
2022年6月10日、足利市の早川尚秀市長が市議会全員協議会にて、山姥切国広の所有者が市への譲渡に応じる意向を伝えてきたことを明らかにした[28]。6月8日の市議会で市長が購入に意欲を表明したことに対して購入に反対する意見が多数寄せられた為、憂慮した所有者が市に任せたいという旨のメッセージを送ってきたと報道されている[29]。足利市は今後、具体的な費用などについて話し合いを進める予定だという。
足利市は2023年7月21日の記者会見や同年8月21日の市長定例記者会見にて[30][31]、山姥切国広の取得と維持を行うための「縷縷プロジェクト」について正式に発表した。取得費用3億円のうち2億円を購入者である足利市民文化財団が負担・残る1億円はクラウドファンディングやふるさと納税によりまかなうとし[32][33]、2023年9月1日よりクラウドファンディングを開始[34]、同10月24日に目標額1億円を達成した[35]。最終的な支援の結果は1億7,013万7,000円(達成率170%)であり、必要経費を除いた差引額のうち1億を購入費用に、残りの3,090万3,000円は維持管理などの費用にあてられると公表している[36]。
2024年3月6日に公益財団法人足利市民文化財団が山姥切国広を取得したことが翌3月7日に公表された[37]。2024年6月21の市議会定例会では足利市山姥切国広未来継承基金条例が制定され[38][39]、足利市山姥切国広未来継承基金の創設が決定した[40]。
山姥切国広の号の由来は、1920年(大正9年)10月25日に採取された刀剣研究家・杉原祥造の押形、その周囲にメモ書きされた当時の所有者(三居翁)の話を一次資料とする[41]。
- 「山姥切由来」原文[注釈 7]
北条家ノ浪人ニ石原甚五左衛門ト云者アリ妊娠中ノ妻女ヲ連レテ信州小諸ヲ通行スルトキ山中ニテ産氣ツキタレトモ男ノ事トテ詮方ナク途方ニ暮レケル折谷間ヨリ煙ノ立昇ルヲ見テ定メシ人家アルベシトテ谷ヲ下リシニ果シテ一軒ノ家アリテ老婆住メリ妊婦ヲ此老婆ニ托シ薬ヲ求メニ小諸ニ行キ急キ帰リテ見レバ婦人ノ泣聲聞ユ帰リテ見レバ其妻ノ分娩シケル児ヲ老婆ガムシャムシャト貪リ喰ヘル處ナリケレバ甚五左衛門怒テ一太刀切付ケタルニ老婆窓ヲ蹴被ツテ出ケレバ跡ヲ慕ツテ追カケタルニ血汐ノ後山腹ノ岩窟マテ續ケリ仍テ松葉ヲ以テイブシケルニ老婆出テ来リテ怒リノ形相物凄ク牙ヲ噛ミナラシテ飛カ丶リケレバ一刀ノ許ニ切リ伏セケリ依テ山姥切ト名付リ(後略)
- 「山姥切由来」現代語訳
当時この刀を持っていたのは、小田原北条家の浪人である石原甚五左衛門という者であった。石原は妊娠中の妻女を連れて信州小諸を通過した際に妻女が山中で急に産気づいたため途方に暮れていたところ、谷間より煙が上がる民家を見付けて、そこに住む老婆に妻女を託して小諸まで薬を探しに戻った。急いで石原が小諸から戻ると妻女の泣き声がする。見れば産まれたばかりの子を老婆がムシャムシャと貪り食べていたため、石原は激怒して老婆を斬りつけると老婆は窓を蹴破って逃げた。
石原が老婆の血潮を辿っていくと血潮は山腹の岩窟の中に続いていた。石原は岩窟の入口で松葉を焚いて燻り出したところ、老婆は怒りの形相で歯を噛み鳴らして飛びかかってきたため、石原は一刀の下にその老婆を切り伏せたことからこの刀を「山姥切」と称するようになった。(後略)
— 杉原祥造、加島勲・内田疎天著『新刀名作集』(1928年)、現代語訳:原史彦 「『刀 銘本作長義(以下、五十八字略)』と山姥切伝承の再検討」 (2020年)
杉原押形は1928年(昭和3年)『新刀名作集』に収録され、1975年(昭和50年)『日向の刀と鐔』を初めとする福永酔剣の著書により山姥切国広の逸話は紹介されたが[43][44]、山姥切の号は本来は本歌である本作長義のものだという説が刀剣界の定説となっていた(詳細は本作長義#山姥切の名前を参照)。
2015年(平成27年)開始のゲーム『刀剣乱舞』において「山姥切国広は山姥切長義の写しだから山姥切を名乗っている」という説が採用され[注釈 8]、本作長義も山姥切長義としてキャラクター化され2018年に実装された[45]。本作長義の所蔵館である徳川美術館は2018年時点では史料的根拠の見つかっていない山姥切長義の名が一般化する事態を考え[46]、特別展「徳川将軍ゆかりの名刀」における展示解説に加え[47]、号の経緯を解説する講座を複数回開催した後に[48][49][50]、論文を発表した[51]。その中では山姥切の号は本作長義にはなく山姥切国広のものだと考えられる、と述べられている。
※ 本節は大部分を『日本刀大鑑』と『堀川国広とその弟子』を出典とするが[1][52]、両者の説明は「『日本刀大鑑』は尺貫法に加えてメートル法でも記載がある」「『堀川国広とその弟子』に銘の詳細がある」以外はほぼ同一である。
※ 刀剣専門用語の意味については、説明文の後に別途用語解説を付した。
全長89.99センチメートル(刃長70.6センチメートル+茎長19.39センチメートル)、元幅3.33センチメートルに先幅2.97センチメートルと身幅広く先幅張り、鋒長7.73センチメートルと大鋒であり、反り2.82センチメートルの先反の強い堂々たる姿である。造込(刀剣の形状)は鎬造りで鎬低く鎬幅狭く、重ねは薄い。棟(刀身の背の部分、峰や背とも)の形状は庵棟。表裏に棒樋をかき通している。姿は豪壮で、激しい乱刃を焼いた優作[53]。
用語解説
地鉄(鍛え肌の模様)は板目、杢交じり総体に流れごころに肌立ち、ザングリとして地景交じり、地沸よくつき、飛焼入り、棟焼頻りにかかる[1][52]。 刃文は、のたれ調に箱がかり、互の目交じり大乱れとなり、足・葉繁く、匂口締りごころに沸つき、砂流しかかる[1][52]。 帽子(切先部分の刃文)は乱れ込み、表裏とも飛焼かかり、先掃きかけて返り、沸つく[1][52]。
用語解説
茎は生ぶで先は栗尻。鑢目は筋違、目釘穴は一。表目釘穴の下に細鏨(ほそたがね)で「九州日向住国広作」[52]、裏に同じく「天正十八年庚
刁弐月吉日平顕長」と刻まれている[52]。
用語解説
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