山名義徳

ウィキペディアから

山名 義徳(やまな よしのり)は、江戸時代中期の交代寄合但馬国村岡領主。

概要 凡例山名義徳, 時代 ...
 
山名義徳
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 元文5年3月8日1740年4月4日
死没 文政3年2月8日1820年3月21日
改名 隼之助(幼名)→立花致知(初名)→山名豊貴→義徳
戒名 宝相院殿真如常覚大居士
墓所 兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の法雲寺(坪谷御廟)
官位 従五位上靱負
幕府 江戸幕府 交代寄合
主君 徳川家重家治
筑後柳川藩士→但馬村岡領
氏族 立花氏山名氏
父母 父∶立花貞俶
母∶角田六郎左衛門娘もん
養父∶山名豊暄
兄弟 立花貞則立花鑑通、きせ、立花致傳
立花致真、登代、みき、戸次通孝義徳矢島通経伝姫、まき、立花通堅、みつ ら
山名豊暄
義方義矩柳生久知義丈義峯
小笠原長世室、松田貞丈
テンプレートを表示
閉じる

経歴

元文5年3月8日1740年4月4日)に 筑後柳川藩第5代藩主・立花貞俶の八男として柳川藩江戸藩邸において出生した。立花氏時代は、同藩第7代藩主となった兄の立花鑑通(初め鑑致)から1字を賜り、立花致知(よしとも)[1]と名乗っていた。宝暦5年(1755年)から通称を靱負と称した。

宝暦12年(1762年)- 山名豊暄婿養子となり、山名豊貴(とよたか、のち義徳[2]と改名した。

明和2年(1765年)4月に家督相続した。

寛政6年(1794年)に隠居した。文政3年2月8日1820年3月21日)に死去した。

人物

  • 実兄(同母兄)は柳川藩一門の立花監物家2代目・立花致真(よしざね)。致真の娘・天寿院は立花鑑寿(鑑通五男)の正室であった。
  • 甥にあたる柳川藩家老の立花通栄(織衛)との文書のやりとりが、「立花織衛家文書」に残っている。
  • 家川念流剣術を習得しており、織衛文書に拠れば柳川藩士に念流剣術奥義を相伝している[3]
  • 書画の才にも造詣が深く、狩野派・加藤文麗に付き画を学んでいた。雅号は文鶴と名乗っていた。
Thumb
猿尾滝観瀑図」(文鶴画)
Thumb
「梅に鶴」(文鶴画)


系譜

    • 男子:山名義矩 - 旗本山名豊翔養子
    • 男子:柳生久知 - 前名・山名義隣。柳生久通の養子
    • 男子:山名義丈
    • 男子:山名義峯 - 旗本土屋氏(喬直流))・土屋匡直の養子として土屋徳直と名乗ったが後に帰家
    • 女子:小笠原長世室 - のちに離縁し小堀政共室、政共は小堀政方の娘の養父
    • 女子:松田貞丈室 - 死別後、最上義溥最上氏21代当主)室

脚注

参考文献

Wikiwand in your browser!

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.

Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.