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琉球第2尚氏王朝第17代国王 ウィキペディアから
尚灝王(しょうこうおう、1787年7月14日(乾隆52年5月29日) - 1834年7月5日(道光14年5月29日))は琉球王国第二尚氏王朝の第17代国王(在位:嘉慶9年(1804年) - 道光14年(1834年))。童名は思次良金(うみじらがね)。
父の尚哲は14代尚穆王の世子であったが、王位を継がぬままに死去してしまう。祖父の尚穆王が没すると、次兄の尚温王が践祚し15代国王となった。さらに兄王が薨去し、その子尚成王がわずか3歳で王位を継ぐも翌年死去し、ついに尚灝王が王位を継ぐことになった。
晩年精神病を患ったため、1828年(道光8年)世子の尚育が摂位した。晩年は坊主御主(ぼうずうしゅう)と呼ばれた。
在位中、宮古・八重山方面への派遣医師の増員のほか、琉球の刑法典である『琉球科律』を追補する『新集科律』の編纂事業があった。 1816年には、バジル・ホールが来琉している。 1824年には旱魃と台風襲来による土砂災害などが発生して大飢饉となった。1825年までの餓死者は3358人に達した[2]。
尚哲の四男として生まれる。即位前、一時尚容・宜野湾王子朝祥(小禄御殿十世)の養子となっていたが、王位にあった次兄尚温王とその子尚成王が没したため、最終的に踐祚することになった。
一妃二夫人八妻をもち、九男十七女の子をもうけた。八人の妻のうち、もともと士族の出自であったのは思亀樽・謝名堂阿護母志良礼のみで、他は全て平民の出である。王の子をもうけたことにより、彼女らの父親は家譜を賜っているが、その内訳をみると史開基・前田親雲上友範のように、地頭職にあげられた者もいる。しかし八人の妻が出自とする家の家譜は現在まだ一冊も見つかっておらず、その詳細は不明である。
また十六女:真牛金翁主と八男:尚腆・真蒲戸金王子の母親は、『中山世譜』や『王代記』にも記載されておらず、誰の子であるかの特定が難しい。出生年と没年からみて真加戸樽・座喜味阿護母志良礼の子ではない。また出生時期の重なりから十六女:真牛金翁主の母は思戸金・又吉阿護母志良礼ではないことは分かっている。
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