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日本の戦国時代~安土桃山時代の大名。出羽国の戦国大名小野寺稙道四男で、小野寺氏13代当主(仙北小野寺氏8代当主)。居城の出羽横手城を中心に小野寺氏の最盛期を築いた ウィキペディアから
小野寺 景道(おのでら かげみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。小野寺氏第13代当主。出羽国平鹿郡横手城主。
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2019年1月) |
天文3年(1534年)、小野寺氏第12代当主・小野寺稙道の四男として誕生。父に倣って、室町幕府第13代将軍・足利義輝から偏諱を賜り、初めは輝道(てるみち)と名乗った[1]。のちに景道に改名。
天文15年(1546年)、父・稙道が家臣の大和田光盛や金沢八幡別当・金乗坊らに殺されて居城・横手城が奪われると(平城の乱)、幼少の景道は庄内の大宝寺氏に保護された。大宝寺氏や由利郡の諸氏、稲庭城主ら小野寺一門の支援を受けて数年後に勢力を盛り返し、小野寺家随一の知謀の将で八柏館(現・秋田県横手市大雄)主の八柏道為の尽力もあって、光盛らを滅ぼし横手城を奪い返した[1][注釈 1]。
その後も勢力を拡大し、湯沢城を八柏道為にあたえて一族扱いとし、みずからは大宝寺氏の娘を正妻にむかえ、新しい本拠地に横手城を選んで城下町を整備し、稲庭・川連・西馬音内・大森などの支城に一族を配置し、小野寺氏の最盛期を築き上げて、安東氏や戸沢氏、最上氏らと対峙した[1]。また、六郷氏から継嗣光道の正室を迎えるなど周辺豪族との外交にも力を注いだ[1]。
天正10年(1582年)、上洛して天下人の織田信長と会見したが、帰国後に大宝寺義氏の横死、嫡子・光道の病死が相次ぎ、鮭延氏出身の側室より生まれた次男・義道に家督を譲って隠居した[1]。
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