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小杉 一笑(こすぎ いっしょう、1652年〈承応2年〉[1] - 1688年〈元禄元年〉[2])は、江戸時代前期の加賀金沢の俳人。
一笑については、従来、現在の金沢市片町で葉茶屋を経営しており[3]、通称を茶屋新七、俳号を一笑としたとされて来た[1]。しかし、一笑の俗名を茶屋新七とするのは、文政(1818~1831)中期ころの成立と見られる『蕉門諸生全伝』が最も早く、それ以前には見られないとされる[4]。そして、片町に住んだ茶屋新七というのは、一笑の死から100年ばかり後に一笑の末葉・二世であると称した二笑なる俳人の俗名等であり、従来言われて来た属性は、一笑の属性としては疑わしいという[5]。
初め松永貞徳門の高瀬梅盛に学び、後に蕉風の句も詠んだ[2]。加賀俳壇を担う逸材として頭角を現し、芭蕉の来訪を心待ちにしていたが[2]、芭蕉が奥の細道紀行で金沢を訪れたのは一笑の没した翌年であり[1]、芭蕉は一笑の追悼会でその死を悼み「つかもうごけ我泣く声は秋の風」の句を詠んだ[6]。
一笑の菩提寺は、大正年間に金沢の成学寺とされたが、昭和31年、郷土史家の殿田良作が過去帳を根拠として願念寺(金沢市野町)であるとした[7]。願念寺には、「一笑塚」および、芭蕉が詠んだ「つかもうごけ…」の句碑が設けられている[6]。
しかし、殿田が根拠とした過去帳は不完全なものであるとされる[8][9]。そして、願念寺は浄土真宗の寺であるが、宝井其角の『雑談集』に見える、死の床にあった一笑による、亡父追善のため13巻の歌仙を巻き終えて死んだという並外れた自力回向、一笑追善集『西の雲』に載る僧の追悼句に詠まれた棚経、一笑その人による亡父追善句に詠まれた位牌が、それぞれ浄土真宗の宗旨と矛盾し、願念寺は菩提寺とは考えにくいという[10]。
これに変わる試論として、一笑追善集『西の雲』に芭蕉・曽良に続いて載る僧2名のうちの1人の名が雲甫であり、芭蕉の金沢来訪時に同名の僧が属していたことや、加賀蕉門の句空の選集に卍山道白(芭蕉の金沢来訪時の大乗寺住持)の詩偈が見えることなどを根拠として、大乗寺の名が挙げられている[11]。
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