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小川 記正(おがわ きせい、1906年[1] - 2000年2月27日[2])は、日本の脚本家、小説家、映画プロデューサーである。1950年(昭和25年)以降、映画の脚本を小川 正(おがわ ただし)の名で書いたが、後年のテレビ映画では「記正」に戻した[3]。
1906年(明治39年)、北海道札幌市の代議士の長男として同市に生まれる[1][2]。父親は資産家で、道内に大きな牧場をいくつか所有していたが、ある事件により投獄され、獄中死した[2]。賭博好きの母親の浪費により家計が傾くなか、慶應義塾大学政治経済学部に学ぶ[2]。
20代のころは松竹蒲田撮影所演出部で助監督を務め、25歳になる1931年(昭和6年)、短篇映画『真夜中商売』を監督したが、同作は公開されなかった。1932年(昭和7年)、新興キネマ現代劇部に移籍し、多くのオリジナル脚本が採用された。1938年(昭和13年)、東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で渡辺邦男監督に3本の脚本を提供した。1943年(昭和18年)、小説を発表[4]。
第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)からプロデューサーに転向、松竹大船撮影所で佐々木康監督の『噂の男』、同じく大庭秀雄監督の『颱風圏の女』、1949年(昭和24年)、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)が設立したCAC(シネマ・アーチスト・コーポレーション)でマキノ監督の『盤嶽江戸へ行く』、島耕二監督の『今日われ恋愛す』全2篇、1950年(昭和25年)には「小川プロダクション」名義で野村浩将監督の『与太者と天使』等をプロデュースした。同年、京阪映画で自ら脚本を書き、12年ぶりに監督した『決闘の河』を自ら製作、同作は東宝が配給して同年11月25日に公開された[5]。
1952年(昭和27年)からは「小川正」と改名し、東映京都撮影所を中心に脚本に専念した。1965年(昭和40年) - 1977年(昭和52年)の長きにわたって、テレビ映画『特別機動捜査隊』の脚本を「小川記正」名義で量産した[3]。
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