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小川 専之助(おがわ せんのすけ、1890年(明治23年)7月15日 - 1934年(昭和9年)1月31日)は日本橋の呉服太物商・小川屋の主人。鼈甲珊瑚問屋・小川専助(四代目)の実弟であり、妻・君子は田中長兵衛の姪。
先代・小川専之助(1866年生)[1]の二男・萬次郎として東京日本橋堺町の呉服商・小川屋に生まれる。弟に道之助、妹に美禰(みね)、ふさ、艶、歌、壽恵子、春子あり[2]。京華商業学校[3]を卒業後、日本橋本石町で鼈甲商を営む金子傳八の三女・君子を妻とし、1916年(大正5年)6月に長女・芳子を授かる[4]。1918年(大正7年)6月、父・専之助は日本化工ペンキ(後の日本化工塗料)社長の内藤彦一[注 1]や銀座で六代続く越後屋・永井甚右衛門らと共に資本金五十万円で東京染織株式会社を設立。同社取締役に就任[5]するも、およそ一年半後の1920年(大正9年)1月2日に死去。萬次郎は専之助と名を改め29歳で家督を相続、同年2月に東京染織の取締役に就任した[6]。父の後継として東京呉服太物商同業組合に入り副組長も務めたが、1926年(大正15年)に小川屋を廃業。1929年(昭和4年)11月には内外煙草材料株式会社の代表取締役[7]に就任し、1934年(昭和9年)1月31日、満43歳の若さでこの世を去った[8]。
父・専之助[注 2]は1907年(明治40年)に発足した東京呉服太物商同業組合創設者の一人で、同組合の評議員を務めた[注 3]。1905年(明治38年)、日露戦争の際の金一千円献納に対し銀杯一個下賜[11]。父の後妻・とら(1872年生)は森清右衛門[注 4]の養女[注 5]。清右衛門は飛行家として著名なバロン滋野の実妹・足子も養女とし葛原猪平に嫁がせている。
兄・専太郎(1889年生)は京華商業学校[13]を卒業後に早稲田大学商科へ進学したが、小川家の本家である伯父・専助[注 6]の養子に入ったためこれを中途退学。1917年(大正6年)1月の先代死去をもって日本橋葺屋町にある鼈甲珊瑚問屋の小川屋[16]と四代目・専助の名を継いだ[17]。1921年(大正10年)紺綬褒章を受章[18]。後に洋品雑貨、化粧品商も兼ねる。東京鼈甲問屋組合長[13]のほか、日本橋女学館理事、日本橋自動車協会会長も務めた[3]。兄の妻・ときは日本橋小網町で紡績糸問屋を営む柿沼谷蔵の三女で、ときの兄・正治郞は第一ホテル創業者である土屋計左右の妹・カイの夫。
妹・ふさ(房、1899年7月生)は日本橋の呉服太物商・稲村源助[19]に、艶(1905年6月生)は安部活次郞に嫁いだ。
妻の君子(1895年生)は日本橋高等女学校を出た後、小川家に入る。日本橋本石町で鼈甲商・小間物商を営む武蔵屋・金子傳八[20]の三女で二代目・田中長兵衛の姪(妹・きちの娘)。専之助は君子との間に芳子(夭折)、廣之助、泰三郎、京子、進、實を授かる[2][21]。長男の廣之助(1918年生)は1941年(昭和16年)に慶應大学経済学部を卒業。1961年に浜野繊維工業に入り、秘書課長を務めた[22]。三男の泰三郎は早稲田大学卒業[23]。
君子の妹・花子は日本初の民間製鉄所である釜石製鉄所の初代所長・横山久太郎の養子となり、渋沢家出身の建築家・虎雄を婿とした。君子の長姉・千代子の夫は大倉金庫店の萩原仙之助[24][25]であり、次姉・染子の夫は東京帝大を出て前述の釜石製鉄所で次長を務めた中田義算[26][27]。
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